キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

張り詰めた糸に押し合い圧し合いたわんだ糸が、心の余剰と結び目に成る。

 

毎月20日と月末は締め日という事もあって、

金銭の出納も相応に活発になるんです。


そうした渦中に伴って、金銭の滞納や遅延、あるいは金額の相違といった故障や悶着も相応に付き物になっていく訳で。
  


先日もまた例に漏れず、先方から届いた一本のお電話で一日が幕を開けました。


お電話の内容は端的に言えば掛金のミスで、

取り扱い金額の差異に気付いたお客様が慌てて手続き申請の入電をされたというのがざっくりした一連の流れなのですが。




以前もこれと似た案件で対応させて頂いたものですから、先方も心なしか恐縮されている様子で、

お声もだいぶ緊張されていると言うか、ヒリついた印象を受けました。

 

 

只こちら側の言い分としては、

入金ミスや手違い以前のお話で、こちらが気付いて反応するよりも遥かに先に、早急に連絡下さった事が素直に有難かったんです。


「有難い」と思える自分が居たんです。

 



だから体(てい)や模範解答や、マニュアルや紋切り型の台詞ではなく、

「ご連絡下さり助かりました。有難うございます」という言葉が自然と口を突いたんです。



その言葉付きが何よりも的を射ていたし、

自らの核心を突いていた。

瞬間的に溢れた気持ちがそのまま言葉に溢れたような、そんなイメージになるでしょうか。


そうしたら、最初は恐らく申し訳なさや引け目から尾を引いていたのであろう電話口の少し角張った声色も、
緊張の糸が解けたように和らいだ気がしたんですよね。





自慢ではありませんし決して褒められた話でもないのですが、私もしょっちゅうミスはするので、


そうした時にフォローして下さる方の存在って物凄く大きいですし、
心を全面的に委ねてしまいたくなるくらい安心してしまうんですよね。


だから、お相手の些細や綻びや躓きも、

不安も恐怖も「申し訳ない」というお気持ちも、


盤上の石を返すみたいに、たちまち優しい気持ちや喜びや、穏やかさへ転じてしまう【布石】にする事が出来たなら。


その転機となる切っ掛けになる事が出来たなら。


その中の一つになれたなら。





図々しい話ではありますが、そんな事を自分は思ったりした訳です。



これは飽くまでも理想論ではありますが、

その理想という【根差す場所】を持つ事で、

【目標】という値を示す事で、


人は【経緯】や【工程】や【結果】という「自分から見える感受や感想」を現実に下ろすが出来るのだとも思うから。


目指したい結果や形がなかったら、


きっと喜ぶ事も落ち込む事も出来ないから。






きっと不慣れな頃であったなら、

自分ももっと緊張の糸が張っていたのだと思うのです。


そのビシビシに張り詰めた糸でぶつかったり押したり
擦れたりして、

漸くたわんで【余剰】を確保した糸が、「今」なのだとも思います。


糸に載せた気持ちの分だけ、弛緩と収縮を繰り返したその数だけ、


誰かを受け入れる器の【間口】の広さとなってくれる。
許容範囲というパーソナルスペースを押し開く余地とも伸びしろともなってくれている。




それでももし、重責や衝撃から糸が千切れたとしても、それはまた次のご縁に結び合わせる事が出来るという事。


第一、一生に一度の人生なのですから、

【結び目】くらい欲張って生きていたいじゃないですか。




猶予や優しさを育てるのは、これまでの経験や環境といった「自らの体験」を元手に育まれるものであると同時に、
時には知識や雑学や情報が、行き止まりの壁に活路を開く糸口となってくれる事もある。



初めての事って常に緊張して張り詰めて、疲弊し切ってしまう程に心が過敏にもなるものですが、


だからこそ感情や情報に鋭敏に反応出来るんですよね。






慣れていたら、

たわみ切っていたとしたら、


流動や変化にもきっと鈍くなってしまうから。





つまり不慣れや不得手って、

自分の優しさや知識を刺激し、そうしてこの先の誰かに穏やかな瞬間をプレゼントする前章であり一種のフラグでもあるんですよね。
  


「〜らしさ」が示すもの。

 

「自分らしさ」や「自分らしく」が暗に示しているのって、

【こう在りたい自分】の姿なのではないのかな、と思うんです。

 

自分が理想とする自分。

自分が目指したい自分。

自分が「そう在りたい」自分の姿。

 

 

 

だから「自分らしく」って、【ありのまま】という意味を一翼に担う一方で、

自分が【指標】としていたい場所でもある。

 

【ありのまま】の本来の意味は、

「実際のとおり」を伝える事で「事実のまま」を見せる事。

 

 

それを装飾や脚色なく見せられる事を「素直」と呼ぶとするのなら、

 

「ありのまま」って多分、一番楽な姿勢や力の抜けた状態と言うよりも寧ろ、

【主軸】や【目標】に近いんです。

 

 

 

この多義的な輪郭を持つ「自分らしさ」という言葉は、

自分のみならず周りからの意見として用いられる事も間々あります。

 

 

 

 

「あなたらしい」や「あなたらしくない」

 

 

 

 

 

こうした「自分以外の視点から見る自分らしさ」って、ある種のショックをも孕むと言うか、

思いもよらぬ角度から【自分】を切り開かれるというイメージがあるんですよね。

 

それは密閉された頭の空気を入れ替える【窓口】となる事もあれば、

物事の風向きを変える【スイッチ】と成り得る事もある。

 

 

 

人によっては自分の目指していたい姿を改めて振り返る機会を得たり、

初心に立ち戻る起点ともなったり、

自らを俯瞰する切っ掛けや新たな可能性を見出す手掛かりとして転じる場合もありますし、

 

また人によっては、真逆に振れる場合もある。

 

 

 

 

 

ここで表記する【真逆】とは、

お相手の言う「あなたらしい」や「らしくない」に自分の路線や指針を沿わせる、という意味になるでしょうか。

 

 

「自分らしさ」をお相手から逆輸入する、

という表現も出来るのかも分かりません。

 

 

 

例えばいつもとは雰囲気も毛色も違うファッションに挑戦したとして、

それを見た誰かから「似合わない」や「あなたらしくない」といった感想や指摘を受けたとする。


それによって、お相手の言う「らしさ」に自分を軌道修正するような。

 

 

或いはお相手の言う「あなたらしさ」に自分を寄せて行く内に、次第に自分の「らしさ」を削ぎ落して行く様な。

 

はたまたお相手の【意志】や【意見】に自分を載せて行く事で、「自分はどうしたいのか」という軸足を徐々に間引いていく様な。

回を経る毎に【自分】との繋がりを差し引かれていく様な。

 

そんな印象も同時並行で抱きます。

 

 

 

 

これらは学生や社会人関係無く、

私含め誰しもが少なからず経験される事なのではないのかな、と思うんです。 

 

 

 

普段はカジュアルファッションやパンツスタイルの多い女性が「偶にはスカートや可愛らしい服を着てみたい」と思っても、

冷やかされたり色めき立たれるのを懸念して【いつも通り】の当たり障りない色味や服装に選択肢が絞られる。

 

 

 

「いじられキャラ」や「お姉さんキャラ」といった「〇〇キャラ」に自分が当て嵌るとするのなら、

そのキャラにそぐわない装いなり言動を無意識的に回避したり。

 

  

こう考えると「あなたらしい」や「自分らしい」って、

 

【いつもの自分】、【いつも通りの自分】、

それから【自分が目指していたい自分】という表現以外にも、

 

【周りに見せたい自分】、或いは、【周りが望む自分】、【周りが見慣れた自分】とも言い換える事が出来るのかも知れません。

 

 

 

 

 

時には周りの反応に自分を添わせていく事も、

そのように努めていく事も、

人の【和】を守り協調や共生を下地とする活社会では欠いては行かれない地盤です。


その側面で「〜らしい」や「〜らしくない」って、

協調や共生の中だけでなく日常のふとした一コマにも割と多いと思います。

 

 

 

周囲から何気なく伝えられる感想なり反応で、途端に「自信」を無くしてしまう事もある。

 

でもそれって、【心】を持つ生き物にとっては至極自然で真っ当な心理なのだと思うんです。

 

 

 

 

何故なら、作品を作るにしても、資格の取得や留学や、今まで無かった【分野】に枝葉を伸ばして行くにしても、

それらは「新しいことに挑戦する」という事に変わりは無いのですから。

 

 

 

【いつも通している路線】ではない型に自分を通しもするのですから、

未開の地を踏むのですから、

その地盤が不安定なのは自然の法則と言って良いほど当たり前の事なんです。

 

不安なんです。新しい事って。

 

 

 

 

 

だからその地盤を【慣らす】為に、

踏み固めてあげる為に、

 

外堀を埋めると言うか、型を固める為の【確証】として周囲の意見が必要なんです。

だからこそ周りの視線やリアクションに対して鋭敏で繊細な感性が求められるのだとも思います。

 

 

 

自信の【型】って、

周りの笑顔や認めてくれる言葉によって固められもするものだから。

 

 


そうしてもしも「似合わない」や「らしくない」といった意見を受けたとして、

 

その殆どは多分、皮肉や悪気を込めて投じられた言葉では無いものだと思いますし(私の希望的観測も含まれてはおりますが)

況してやその大半は、他意や作意を含まない言葉ばかりだと思うんです。

 

ただ純粋で、率直な意見。


裏を返せば、そんな混じり気無く純度の高い感想だから、一層研ぎ澄まさた言葉と成って心に刺さりもするんですよね。

 

 

 

 

要は、その言葉を貰った際に自分がどう受け取るかという所に重点は置かれるのだと思います。

自分が「それ」をどう解釈するかにその後の分岐は委ねられる。

 

 

表情や言葉や音の響きは飽くまでも、

自分が発展したり情動したりリアクションする切っ掛けの一つに過ぎませんから。

 

結局はその言葉を材料にして、

自分がどう解釈を組むのか、発展の指針を決めるのかに、

今この瞬間の采、挽いては自分の人生の構築は託されるのだと思います。

 




「あなたらしくない」って、一見すればネガティブな印象に傾倒しがちな響きではありますが、

 

別の視点から見てみると、それは普段周りに見せていない自分の【一面】を開示した、という捉え方も出来るのではないかと思うんです。

 

普段見せない、見せられない一面を誰かに見せる事が出来た。

或いは、表現して行けた。

そもそも「らしさ」が【そう在りたい自分】や【目標】に近しいのだとするのなら、

そのらしさは「らしくなさ」という陰の面や礎に支えられて表される表層でもある筈です。

 

 

 

それに気付いてくれた人が居た。

見て居てくれた人が居た。

知ってくれた人が居た。

 

それは、自分の【路線】をひとつ増やす事が出来たとも言う事も出来るのではないかと思うんです。

自分という多面体がひとつ増やされた。

 

 

 

「自分らしくない」、「あなたらしくない」という言葉が例え、

自分の弱さを垣間見せた結果でも、

自分へ挑戦した先での反応だったとしても、

 

それはお相手から見える自分の【一面】をひとつ増やされた、という事に相違無いんです。

 

 

 


それが例え本意でも不本意でも、

普段見せなかった、又は見せられなかった自分の一面を見せられた。

開示する事が出来て表層出来て、外在する事が叶えられた。

 

それって、自分の殻をひとつ破る事が出来たと言えるのかも分かりません。


つまるところ「自分らしく生きる」って、

「自分が目指したい自分を目指して良いんだよ」

というエールなんですよね。

 



大切にしたいのは、「~らしい」で自分の可能性を間引かないこと。

これまでの「自分らしさ」に、この先のレールまで敷かれないこと。

 

そして誰かの言う「あなたらしい」に、

自分の【らしさ】まで奪われないことなんです。


 

一分と十分

 

【一分】と【十分】という言葉がある。

十分に足りる。

十分に満ちる。

十分に充てる。

十分に生きる。

【十分】とは、不足の無いこと。

必要な分だけ、あるいはそれ以上が備わっていること。

 

 

対して【一分】とは、僅かなこと。

一日の一分であり、思いの一分。

人の一分で、人生の一分。

「十分なものの一つ」ということで、「十分の一」であるということ。
 
もしも【十分】を腑分けることが出来たとして、
【十分】の中身を解体出来るのだとして、
 
そこで観察出来るものがあるのだとしたら、
それは多くの【一分】が結集した姿なのだと思うんです。
 
 
 
 
詰まるところ【十分】という型を包括しているものの正体は、
自分にとって最も「手近」な一歩から踏み固めて来た一分、一分の連なりです。
 
自分の歩幅で届き得る「手近」だった一歩であり、
 
「手近にして来た一歩」です。
 
 
 
【一分】とは満足に値するものの一つを言うとするのなら、
 
「十分に生きる」ということは、「十分の一」を生きること。
転じて【今】を生きるということで、
今一番身近な自分の意思に踏み跡を付けてあげること。
 
 
 
 
 
 
夢を持っていたとして、
叶えたい夢があったとして、
それを叶えるのだとして、
 
それは例えばシンガーであれば楽器を買ったり、
漫画家であるなら画材や原稿を揃えたり、
はたまた、そうした資材購入を目的とした労働の時間を自分自身に与えたり。
 
 
 
今自分にとって最も身近な「夢」を叶える所から始まるのだと思うんです。
 
この夢を叶えることにより、
現実に降ろすことにより、
 
地に足を着くことにより、
 
 
 
その【軸足】に支えられて振り出せるのが次の足であり夢なんです。
当座の目標であり展望でもある筈です。
 
そうしてそれが、一分、一分の連なりになる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
例えばポイ捨てをしている方が環境保護の歌や論文を発表しても、
【実務】の伴わない言葉というのは人の心に届きません。
 
この実務が日頃の生活習慣や心掛けを指しているとするのなら、
訴えも文面も台詞一つにしてみても、
 
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が余程肝要になる場面もある。
 
 
 
この「誰が」という部分がその人自身の一分一分の積み重ねを指しているのだとするのなら、
 
それこそ職人にしても社長にしても政治家や創作者にしてみても、
役職や階級、箔(はく)や銘柄を持つ前に【一介の士】であることが常に根本の土台として求め続けて行かれるのだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一をなくして十には行けない。
 
のっけから「十」へ行けるとするのなら、
 
それに呼び名を与えられるとするのなら、
 
 
 
 
私ならそれに「【台】無し」という名前を付けているのかも知れません。
 
 
 

【自分】の代わりは居たとしても、【自分】の人生を担えるのは自分だけ。

今の仕事も役割も立ち位置も、

自分の代わりはいくらでも居る。


だから遠慮も謙遜も要らない。



自分の代わりは沢山居ても、

自分の人生は一つしかない。


だから「私が居なくなったら」という【仮想現実】や【呪い】の椅子に囚われず、

自分は自分が「信じたい」と思えた道に踏み跡を付けて行けば良い。



弱者は僕のせいだから

物語が始まる

物語が始まる

  • 弱者は僕のせいだから
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes


呼吸が変われば感情が変わる。

感情が変われば表情が変わる。

表情が変われば言葉が変わる。

言葉が変われば考えが変わる。

考えが変われば行動が変わり

行動が変われば習慣が変わる。

そして習慣が変われば人生が変わる。


20代の頃、人生の節目節目で耳にたこが出来る程言われ続けていた言葉です。




ライブはアーティストさんとファンの方々で「息を合わせる」空間でもあると思うのですが、


弱僕さんは「呼吸を変えられる」イメージ。



感情が動けば呼吸も変わる訳ですから、

ライブ後の疲労感はそれだけ感情を動かされていた証拠。

MCやセトリ、休憩を与えない意図含め、


感情が【楽】する暇を与えない。




だから弱僕さんのライブは「聴く」や「観る」と言うよりも「体感」や「勝負」という表現の方が的を射ていて、

ライブ自体が一巻の物語だから小説や映画以上に【一対一】で対峙しているイメージが強い。


呼吸を変え感情を変え、

そうして人生を変えさせてくれるグループが、





弱者は僕のせいだから さん。




道を表す「しんにょう」に「兆し」と書いて逃げると読む。

 

「目を背ける」って、

【別の視点】に目を向ける、とも言い換える事が出来るのかも知れません。

「目を逸らす」って、

【見える範囲を広げる】という意味で捉える事も出来るのかも分かりません。

 

 

それまで向き合っていた物事から意識を手放すという事は、

先刻まで自らが固執しこだわり探求し、

あるいは思考を縛っていた視野を【開放する】と表現する事も出来るのではないかと思うんです。

 

 

 

 

 

 

見る視点を増やす。

 

違う観点に切り替える。

 

 

 

それはつまり、「思考の柔軟さを取り入れる」という事でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前の障壁や逆行に真っ向から立ち向かえる心向きは、

 

【筋】というものを失わない為にも、

【自分】との繋がりを絶やしてしまわない為にも、

 

守り続けたい意志や地盤でもありますし、

失くしたくない意識でもあります。

 

 

 

 

ただ、それが【かたくな】になると、

「周りが見えなくなる」という可能性も同時に並走するんですよね。

 

 

顕微鏡を覗くみたいに、

一点に意識が絞(しぼ)られる事で全体の動きが見えなくなる。

総体的な把握が届かないから、

ふと視野を戻した時に今の自分がどこに居るかも分からなくなる。

 

 

一ヶ所に重きが置かれるあまり、

大元の【筋】を大きく外れる事もあれば、全体的なバランスを崩す事もある。

 

本懐を見失いかねない事もある。

 

 

 

 

 

 

これって絵画を描く時でもそうなのですが、

一ヶ所に集中して描き込んでいると、いったん離れて見た時に全体の構図が物凄くアンバランスになっていたりするんですよね。

 

部分的な主張が強いから、周りに布(し)いた線や配色まで圧されてしまう。

それによって一枚の【絵】としての均衡が取れなくなると言うか、

 

総体的なメッセージ性に欠けるんです。

 

 

 

 

 

「集中し過ぎる」という言葉をほんの少しだけ読みほぐすと、

「集中して 過ぎる」という二つの意味が見えて来ると思います。

 

それは、集中し過ぎる余り目的のものを過ぎる事。

 

 

 

「行き【過ぎる】」という事で、

「通り【過ぎ】」てもしまう事。

 

時として「集中し過ぎる」という事は、

物事の突破口や打開策が秘められた「ワード」や「景色」に気付き難くなるフィルターとも成り得るのかも知れません。

 

自らの手で、

気付き難くなる要因を作っているのかも分かりません。

 

 

 

 

 

「集中する」とは【盲目的】になる事ではありませんし、

「目を逸らす」とは決して【放棄する】事では無いんです。

 

 

 

一見、「逃げ」にも「停止」にも思えたものが自分の【転機】となる事ってあるのではないでしょうか。

 

「遠回り」にすら思えていた出来事が、

人脈を結び、手土産を拾い、可能性の裾野を広げる【ご縁の紐】そのものだったという事もあるのではないかと思うんです。

 

 

 

あらぬ場所から突破口が見付かる事って、

きっと誰しもが経験し得る事なんです。

 

ふとした意識の転換が予期せず解決の糸口となったり、

目の前の【壁】には縁もゆかりも掠(かす)りもしない趣味や場所や交流が、

思い掛けず課題の克服や着想のヒントになる事って往々にしてあるんです。

 

 

 

 

 

 

だって、避けようと逸れようと外れようと、

それが「出来る」という事は、

 

【そこから行ける道がある】という事なんですから。

 

 

 

 

そもそも「道」とは元からそこに設置されているでも用意されている訳でも、

況してやデフォルトやフローチャートで行き先が決められているものでも無くて、

 

自分が踏んだ経験や選んだ選択そのものの事を言うのですから。

自分自身が「道」なのですから。

 

 

 

 

だから目を逸らすや顔を背けるって、

何も「逃げる」という事では無いんです。

 

ただ、少しだけ【いきかた】を変えてみるだけなんです。

 

その為の視野の紐を緩める為に、

集中の縛りを解いて心の糸をくつろげて、

 

 

目を向けるものへ注ぐ緊張を和らげて、

【対象】とする物事からようやく目を逸らしてみる。

 

 

 

 

 

 

それは、肩の力を抜くとも思考の空気を入れ替えるとも、

 

はたまた新たな景色を取り込むとも言えるのかも分かりません。

 

 

 

頭の空気の入れ替える。

心の換気をしてあげる。

 

 

 

そもそも「逃げる」という事は【放棄する】という事では無く、

 

【生きる】という事なんですよ。



 

【日常】を頂けている恩返し


ある程度 都会や都心に近しい場所であれば、

例え真夜中でも街灯や電飾、ビルの窓明かり等で【真っ暗闇】を体験する事は稀かと思います。


カーテンによる遮光や常夜灯等の消灯で即席の暗闇を生み出せる分、

今の時代、【黒色】に限りなく近い空間を体感出来るのは外ではなく室内なのかも知れません。




そんな事を今からほんの数時間前の浴室で、

磨りガラスの向こうに広がる暗澹の世界を眺めながら不意に考えていました。


例え節電でなくとも、

消灯した室内に少しでも身体や眼を親しませてあげる事で、

いざと言う時の【冷静さ】や気休め程度の【落ち着き】くらいは育ててあげられるのかも分からない。




恥ずかしながら私は今迄電気を点けっ放しにしてしまう場面も少なくなかったのですが、

今回を機に、暗がりに親しむ時間を少しずつ下積んで行こうと思いました。


日頃から電気という秩序と安心を頂いている分、




こうした折に恩返ししつつ自らも身の肥やしに出来る転換や習慣を作って行ってあげたいですね。



いや、どっから出たん。


総重量9kg程度の在庫品を肩下程の高さにあるスチールラックへ収めようとしただけなのですよ。


出来ると思っていたのですよ。



その自信とは相反し、

棚の高さ迄引き上げようとした途端「ンンヴふ」みたいな出所不明のあられも無い声が噴出した上その現場を営業帰りの所長に見られ顔を覆いたくなりました。




何だったら不格好な姿勢で停止している私を

「大丈夫?重いもんね」と飄々といなし、 

挙句の果てには力声も勇み声もウンともスンとも零す事無く流れる様なスマートさで在庫品を収められたものですから、


何かもう羞恥やら情けなさやらで居た堪れなくて裸足で逃げ出したくなった週末15時の私です。



それは偏るという事ではなく【本懐】を見失わないという事


私はこの先も、

楽な道も厳しい道も両方選んで行くのではないかと思います。


そうやって自分の【真ん中】を常に目指し続けて行くのだろうと思うんです。




それが【真綿の道】でも【茨の道】でも、

どちらか一方向を選び続けて行くとしたら、


多分、私は【真ん中】から曲がって行ってしまうから。


何でもない日に自分を捧ぐ。


昨日(3/14)は今年度分の有給消化でお休みを頂いていたのですが、

休み明けの今日、全く予期せぬタイミングで会社の方からチョコレートを頂いてしまいました。




ホワイトデーは昨日なのに。



と言うかそれ以前に今年は誰にもチョコレートお渡ししていないのに。




「えみさん仕事頑張ってるから。

取引先も皆褒めてくれてるし」


すし詰めにしても尚、身に余り過ぎるお言葉に『壊れたブリキの玩具上等』で「とんでもないです滅相もないです恐れ多いです」とひたすら首をぶん回し続けていたのですが、

未だにこうして褒めて頂ける環境に居られる事が、

私は本当に有難い。


記念日にプレゼントを贈れた訳でもお祝い出来た記憶もないのに、

去年も今も「お返し」でも「行事」でもなく「何でもない日」に【気持ちを贈って下さる方】がいつもどこかに居てくれる。



心を生かされているなぁ、と沁々痛み入る瞬間です。



至らないなりに、

そのお気持ちに追い付けるよう励みますね。




気持ちに応えるという事は、必ずしもお相手の布いたレールに乗るという事ではないんです。


自身の気持ちを伝えた上で

想いや意思表示を踏まえた上で


お相手の【心の展開図】を明示して下さるのは嬉しいものです。



「あなたがそう言うなら」や「傷付けるかも」といったお相手本位や謙遜での意見ではなく、

「これを伝えたい」と思える程の労力をお相手にも自らにも充てて下さるという事だから。




「自分には自分のやり方がある」という一言や定型文には収まらず、

その内訳を明細し、

今ある熱火や不確かな靄を何度も飲み下しと生み出しを繰り返しながら【自分の言葉】として伝えてくれる。


そこには「これがいい」という想いの丈と思い入れと、

誰に促された訳でもない、その人自身の【地力】がある。




そこに根差されている真摯さと切実さは誰もが持ち得る物ではありませんし、


誰に対しても持ち得られるエネルギーでもありません。



そういう【志】を持ち続けたいと思える方がその人で、

その志を「発動したい」と思える人が自分だった。




薄らぎ痩せても切れぬものを、

人は「糸」と呼べるのかも知れません。



「手が見えている」が与える安心感。


マナーは何の為にあるのかと尋ねられたのだとしたら、


自分なら「秩序」や「しきたり」、

「公での作法」や「品格」の為と回答するその前に、


お相手に「不快感」や「心理的な抵抗」を抱かせない為の術(すべ)や計らいを明文化したのが【マナー】というものの原文なのではないのかと、


そう答えるのだと思うんです。




例えば握手や軍隊で行われる刀礼は何故行われるのかと言えば、

それが友好や挨拶、

好意を示す動作であると同時に、


お相手に対して「敵意はありませんよ」という意思表示を見せる意味を持っていたからです。



握手により自らの手を制する事で、

あるいは刀礼で両の手をお相手の前に晒す事で、

「自分は武器を持っていない」

「何も隠していない」

「あなたに対して潔白ですよ」

という安心感を与えるツールの一つに成り得たんです。



転じて手を見せない事、

【手の「内」を見せない】事はお相手に与える「不審」と「不安」、

「警戒」や「緊張」へと直結する事を示唆していた。






腕組みをする動きに「隠し事」や「考え事」、

気持ちを悟られないようにと一定の距離感と自分のスペースを確保する心理がある、

というのはある程度有名かと思うのですが、


会社の上司でも後輩でも、

お取引先でもお店に来店されるお客様であったとしても、

腕組みをしたりポケットに手を入れるのは一種の「防衛」や「親しみ難さ」、

「不安感」というイメージとしてお相手の心に受動される仕草の一つに数えられます。



敢えての威圧感や断交の図を示す狙いがあるのであれば効果的な動きかと思うのですが、


だからこそ社会で生きる上での一般教養の一つとして、

厳しく指導や指摘がされて行くものなのだと思います。




それは学生や社会人

政治家や芸能人に関係無く、

他の動物よりも一際 心を重んじている【人間】という生き物として、

欠かしてはならない【素養】だからです。



そうした立ち居振る舞いの意味や人への配慮が基盤に根を張り、

初めて【睨み】や【斜に構えた姿勢】などの表現や演出、魅せ方は生きて来るのではないのでしょうか。





「人は見た目が9割」と言われる事もありますが、

例えばこれがお友達や、腹の中(うち)も気心も、

すっかり知れたお相手であったのであれば【無礼講】も適用されると思うんです。


見た目や口癖、手癖足癖といった「目で見える情報」を受けるその前に、

その方自身の本質や普段携えている心向きを相応に認知している仲ですから。

その上で言葉や行動が渡り合える関係として【結束】されてもいるのですから。


一辺倒ではなくあらゆる側面の一つとして、

その一面を分け合えてもいるのですから。


「分かり合えている」のですから。




ですがこれが初対面や、

まだあまりお互いの事を知り得ていない場合だと、


目の前の身なりや立ち姿勢がそのままその人自身のイメージとして結び付いて行く恐れを生む。

【一面】ではなく【全面】として、捉えられかねないんです。









ここから先は余談と言うか、

私事の色味と趣向、偏見が強い話になってしまうのですが、


今どきの学生の方々が意識されている制服の着こなしは恥ずかしながら把握出来ていないものの、

私が学生の頃って、男子の間で「腰パン」なるものが大変流行っていたのですよ。


ご本人達の価値観では「格好良い着こなし」として認知が確立されていたようなので、

そうした格好を選ばれていたのだと思うのですが、



中学から始まり高校を卒業するその日まで、

私の価値観は遂に腰パンの格好良さを理解する事は出来ませんでした。





注釈を挟ませて頂くと、

【ファッション】という括りで見れば服の着こなしも着崩しもその方の自由ですし演出ですし、

自分というものの表現力の一つですから、


第一に他者の理念や道徳心を押し付けるものでは無いんですよね。


しかしだからこそ、

自分から見える見え方や印象、価値観を憚るものでもないと思います。

それは強制やディベートや、【理解】の強要が目的ではなく、

シンプルに「自分はこうしています」という【認知】を目的とした意味として、です。




先述の「ポケットに手を入れてお話されている姿」にしても、

極論、私に取っては腰パンと同じようなイメージを心に抱いてしまうのです。

(勿論、寒さ等の防寒対策や、実際の心理的な防衛として用いられている場合はこの限りではないのですが)


当人はお洒落や格好良さを意識されていたとしても私に限った視点では、


お相手に与える心象や、

初めましてのお客様に「不安」や「隔たり」、「不快感」を与えぬようにという配慮に欠けた礼や社交に見えてしまう。


どれだけ優しくても誠実な方であったとしても、

その行為一つでたちまち翳って見えてしまう、


少しだけ残念な一瞬です。






こうした一連を踏まえると、

私に取っての格好良さや美しさって、

お相手に「不審感」や「不安感」を与えぬようにと努められる姿を指しているのかも知れません。


服装や髪型やアクセサリー、

格好や見目形というものは、




あくまでも前者に記載した【姿勢】が土台に据えられた上で際立てられる「らしさ」や側面で、

演出や装飾でもあるんですよね。




母の味。


「最期の晩餐は何が良いか」と聞かれたら、

今の自分なら間違いなく「母さんの握った塩結び」と答えるのだと思います。



基本的に料理の苦手な母ですが、

塩結びに関しては文字通り「炊き立て」のご飯でいつも握ってくれたんですよね。


それが凄く美味しいから自分も倣おうとしたのですが、いかんせん本当に「炊き立て」なもので、


お米が熱くてとてもじゃないけど真似出来んのですよ。



料理に洗濯に掃除に買い物。 

家の為に家族の為に、

赤切れてふやけて厚くなった母の手だからこそ握る事の出来た味なのだと痛感します。


中学生の頃、

友達が自宅へ遊びに来た際に「お菓子を用意していなかったから」と出してくれた数個の塩結び。




それを皆が「本当に美味しい!!」と平らげてくれた日の思い出は、


おもはゆくも忘れがたい、私のささやかな自慢です。




2022.3.11


関東大震災も明暦の大火も、

自分は【黙祷】をしたことが無い。

黙する事は出来たとしても「悼む」ところまでは行かれない。




この境界線はどこなのだろうと昼夜を舎かず時々考えることがある。


聞く人が聞けば一笑に付す話なのかも知れないけれど、

割かし私は本気でそれを思っている。



戦争も災禍も悼むことが出来るのは、

多分その時分に近しく在れた人々だけ。

心を分け合う時代の距離に生きることが出来た人達だけ。


だから今日という日を【悼む】ことが出来るのは、

この100年を生きる私達にしか出来ないこと。 


私達でなければ「馳せる」ことが出来ないこと。



関東大震災を生きた人が、

そしてその痛みを「知る」人々が、

99年後も祈りを捧げているように。



自分が死ぬまでの100年間。


私はきっとこの先も、「今日」という日に黙祷する。





【見方】が変われば【味方】に変わる


見方を増やすということは、

物事の受け口を増やすこと。


解釈の窓が開くこと。


そして価値観や概念が垢抜けること。




尺度や角度や立ち位置を変えて見てみれば、

それまで自分から見て「外側」にあった出来事が「内側」に収まっている事だってある。


【見方】が変われば【味方】に変わる。



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