【一分】と【十分】という言葉がある。
十分に足りる。
十分に満ちる。
十分に充てる。
十分に生きる。
【十分】とは、不足の無いこと。
必要な分だけ、あるいはそれ以上が備わっていること。
対して【一分】とは、僅かなこと。
一日の一分であり、思いの一分。
人の一分で、人生の一分。
「十分なものの一つ」ということで、「十分の一」であるということ。
もしも【十分】を腑分けることが出来たとして、
【十分】の中身を解体出来るのだとして、
そこで観察出来るものがあるのだとしたら、
それは多くの【一分】が結集した姿なのだと思うんです。
詰まるところ【十分】という型を包括しているものの正体は、
自分にとって最も「手近」な一歩から踏み固めて来た一分、一分の連なりです。
自分の歩幅で届き得る「手近」だった一歩であり、
「手近にして来た一歩」です。
【一分】とは満足に値するものの一つを言うとするのなら、
「十分に生きる」ということは、「十分の一」を生きること。
転じて【今】を生きるということで、
今一番身近な自分の意思に踏み跡を付けてあげること。
夢を持っていたとして、
叶えたい夢があったとして、
それを叶えるのだとして、
それは例えばシンガーであれば楽器を買ったり、
漫画家であるなら画材や原稿を揃えたり、
はたまた、そうした資材購入を目的とした労働の時間を自分自身に与えたり。
今自分にとって最も身近な「夢」を叶える所から始まるのだと思うんです。
この夢を叶えることにより、
現実に降ろすことにより、
地に足を着くことにより、
その【軸足】に支えられて振り出せるのが次の足であり夢なんです。
当座の目標であり展望でもある筈です。
そうしてそれが、一分、一分の連なりになる。
例えばポイ捨てをしている方が環境保護の歌や論文を発表しても、
【実務】の伴わない言葉というのは人の心に届きません。
この実務が日頃の生活習慣や心掛けを指しているとするのなら、
訴えも文面も台詞一つにしてみても、
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が余程肝要になる場面もある。
この「誰が」という部分がその人自身の一分一分の積み重ねを指しているのだとするのなら、
それこそ職人にしても社長にしても政治家や創作者にしてみても、
役職や階級、箔(はく)や銘柄を持つ前に【一介の士】であることが常に根本の土台として求め続けて行かれるのだと思います。
一をなくして十には行けない。
のっけから「十」へ行けるとするのなら、
それに呼び名を与えられるとするのなら、
私ならそれに「【台】無し」という名前を付けているのかも知れません。