周りの見方や行動を見て「なるほど」と思う時って、
それまでの自分の考えだったり「こうだ」と信じて来たものが【揺らぐ】瞬間でもあって、
やがて「こういう見方もアリかも知れない」と受け容れられる最初の間口になって行くのだと思います。
そうした「なるほど」が、それまでの固く閉ざした【考え】の窓をひとつひとつ開けて行き、
誰かの先行した考えだったり、周りの意見を交えながら飛び込んで来る一情報に対しても、
そういった感情にさらわれる事なく「こういう見方」もあるのでは?と一歩引いて考えられる。
幼い頃から誰もが育てているこの感覚が、
ここ数年の生活を通して日増しに強くなって来ている気がします。
それは多分、他でもない私自身がこの2~3年で大きく揺らぎ、そして【変化】して来たから。
好きなアーティストさんの活動が元々の【方向性】から外れているように見えた時、
以前の私なら「どこへ行こうとしているのかが分からない」と不安視をしていましたし、
その方の挑戦が【根差しているもの】とは異なるイメージであったなら「軸が無くなってしまうのではないか」と懐疑的にもなっていたのだと思います。
ただ、そんな私の受け取り方も次第に変化し始めて、
様々なアーティストさんの挑戦や、ストリーマーや作家さん、モノづくりをされる方々の考えに触れて行く内に、最近ではこう思えるようになったんです。
―――初心と同じくらい、現在(いま)の自分の「やりたい事」って【軸足】ではないのかと。
そうした中で かつて根差した「こう在りたい」や「こう在るべき」が、現在(いま)の自分を縛ってしまう事もあるのでは?とも。
「 0 」から「 1 」を生み出すのと同じくらい、
これまでの自分が築いた【流れ】を変えて行くのは難しいです。
だってそこには、【これまでの自分】に賛同してくれた人が居るのだから。
これまでの自分を「好き」だと言って、付いて来てくれた人が居るのだから。
【在り方】を変えるって、それまでの自分が築いた流れにぶち当たって行く事でもあって、
【それまでの自分】が在れば在る程、舵を切ろうと試みた時の抵抗というのは強くなる。
波風が立つのは至極自然な事なのだとも思います。
裏を返せば、こうした時に噴出する不満であったり一意見って、
「そのままの君が良かったのに」というショックや悲しみを内包した声でもあるんですよね。
人がアーティストを好きになる時の理由ってきっと一つではなくって、
楽曲そのものの方向性やメンバー同士の関係性、あるいはファンとの向き合い方や距離の取り方に好感を持って…等、それこそ様々だとは思うのですが、
「好きになった理由」って、そのまま そのアーティストへ「求めるもの」にもなって行くのだと思います。
それでも、この先そのアーティストにやってみたい事が出来た時。
これまでの選択には挙がって来なかった挑戦を「やってみても良いかも知れない」と思えるタイミングが来た時。
自分達の「こう在って欲しい」といった思いや かつてのアーティストの「こう在りたい」が、
現在(いま)のアーティストの【枷】になってしまう事を望んでいる訳ではないんですよね。
これは私自身が実感している事でもあるのですが、
人って過去の出来事やそこで覚えた感情といった【それまでに積み上げた想い】の上に【自らの考え】や【ポリシー】を築いて行くもので、
元々の【考え】を持っている事で、この先の出会いや体験を通して新たな視点や選択肢に気付いて行ける生き物なのだと思うんです。
アーティストという職業に於いても同じですよね。
伝えたい想いがあったからこそ、それに基(もと)づいた楽曲がつくられて行くのでしょうし、
伝えて行く事で新たに芽生えた【気持ち】や【自問】が自らを次の挑戦へと導いて行く事だってある。
それまでの自分なら選ばなかったような事に心が動く瞬間って、
「軸がブレる」とはまた異なる、「軸を通したからこそ」迎えるフェーズなのだと思います。
ただ、それを選べる【フェーズ】までやって来れたのもまた、当人の力だけでは無いというのも確かです。
それ以前の「やりたい事」を「やれた」自分が居たからで、
それを「やれた」と【自分自身】に実証出来る、見届けてくれたファンや家族が居たからで、
それを「やる」に至らせてくれた【ひと】の力があったから。
今の自分って、【今以前の自分】も含めた多くの人の力の上で「動けている」のだという事は、決して忘れてはいけないのだとも思います。
ファンから観えている景色とアーティスト側から観えている景色って必ずしも一致しているとは限らなくて、
アーティストにはアーティストそれぞれの「求めている景色」があって、
ファンにはファンの「求めているアーティスト像」があるのだとも思います。
だからきっとファンの方々は、
そんな「自分にとっての”好き”」を見付けさせてくれたその人に
【その人自身も笑顔になれるような景色】を見せたいのだと思うのでしょうし、
「好き」という気持ちの嬉しさだったり誇らしさを
様々な形でアーティスト本人や周りの人に「知って欲しい」と思うのだとも思うんです。
一方、歌そのもの以外にも「どうすれば自分を見て貰えるのか」を考える事がアーティストには必要で。
常に活動の真ん中にある「自身の声に耳を傾けて貰う」という目的地を思った時、
その為に出来る様々なアプローチを思った時、
一生の内の更に限られた時間の中で
【残された時間】の使い方というものは並行して考えたいし、実行して行きたいと考えるのだとも思います。
(この【残された時間】の使い方はアーティストに限る事なく、誰しもに言える事なのだけど)
―――これも実際に体感して思った事ではあるのですが。
私は、【一行動】に対し批判と賛同ってセットなのだと思っています。
どんな行動にも悩んだ末の決断にも、批判は必ず付いて来る。
何をしたって批判は付きものなのだから
万人に受け入れられる選択肢なんてないのだから
同じ逆境を選ぶなら、自分がやりたいと思える方を選べば良いのだと思います。
だって、周りがどれだけの異を唱えても
行かないで欲しいと願っても
【私】の人生の責任は、その方に取る事は出来ないのだから。
私はきっとこの先も、好きなアーティストさんや作家さんに不満があれば言うのだろうし、思うところがあれば呟きもするのだろうけれど。
以前と違うのは、そこに「私はこう在って欲しい」という願いがあるのだという事を、私自身が自認しているという事なのだと思います。
私の【心】を対象とした、
「私が求めるアーティスト像」でもあるのだという認識は前提としながら話していくのだと思う。
ここから先は余談ですが、
私は多分2~3年くらい前からTwitterやInstagramを見る頻度が減っていて。
インスタに関しては私が投稿するタイミングでのみ周りの投稿も覗きに行くという視聴の仕方に変わっています。
これに関して理由はいくつかあるのですが、その内の一つは「自由時間の確保」でした。
以前は知人、友人のストーリーズも割とこまめに見ていた方だと思うのですが、
一つ一つの投稿を流し見出来ない性質でもあった自分は、一度開いた投稿は隅々まで読むようにも心掛けていたんですよね。
それは投稿する側にとって嬉しい事でもある反面、
一個人の生活を鑑(かんが)みた時、
SNSに一定の時間を充てるという事は当然【それ以外の時間】を圧迫するという事でもあって。
周りの投稿を読むだけで一時間以上を要してしまっていた自分は、元々の時間の使い方の不器用さも相まって完全な【個人の時間】を取りにくくなっていたんです。
これが一度SNSの利用時間を少なくしようと思い立った切っ掛けの一つになっていて、
それ以外にも「ストーリーを見てくれている」とか「くれない」とか、
いいねを押し合う事によって保たれる関係性みたいなものが、間接的にも見ていて疲れてしまうというのがあったりもしたのだけれども。
実際にこうしてSNSを離れてみると、
その分の【隙間】にはやっぱり新たな出会いや発見がたくさん入って来たんですよね。
それまで触れて来なかった分野とか、これまでの場所から一歩外の世界へ出る事によって、これまでは持ち得なかった【見方】を受け容れられるようにもなって来て、
それがきっと、現在(いま)の自分の考え方にも通じているのだと思います。
当時はSNSから距離を置き始めた事で、
それまで私がストーリーズを見に行ったり「いいね」を押していた方から「最近(インスタを)見ていないでしょ!」なんて不服そうに言われる事もありましたし、
きっとその方にとっては、いつも投稿を見に来てくれていた【私】が「そう在って欲しい」私の姿でもあったのだろうなと思うけど。
私はあの時、たくさん揺らいでたくさん遠回りをして良かったなって思うんです。
あの頃 敢えてひとつどころに根を張る事なく色々な場所を見に行ってみて良かったなって思うんです。
だってそのお陰で、当時はまだ掴めていなかった【(アーティストさんや自分自身の)在り方】に対する違和感に答えを出す事が出来たんだから。
こうして明文化出来るようにもなったんだから。
その時の自分にはまだ「どうなるのか」が分からなくても、
やっぱり一歩動き出してみる事って大切なのだと思います。
それまでの自分に無かったものをやってみる、自分という分野を広げてみるって重要なのだとも思います。
今の自分に出来る事って、
これまでの自分が在ったからこそ、選択肢に挙げれるようになった事なのだとも思いますし、
その時の一歩がどんなにささやかなものでも
巡り歩いている内に「私はこうしたかったんだ!」っていう【答え】に思い掛けず辿り着ける事もあるから。
そしてきっとその為にも、「今の自分が信じる道」を懸命に生きて行くのだし、
心の揺らぎや引っ掛かりを蔑ろには出来ないのだとも思います。
だってその引っ掛かりはもしかしたら、
自分の心に正対(せいたい)して来たからこそ ようやく形になって来た【自分】から【自分】に対する問題提起なのかも知れないし、
この先へ更に踏み出す為の取っ掛かりにもなっているのだと思うから。
