「目を背ける」って、
【別の視点】に目を向ける、とも言い換える事が出来るのかも知れません。
「目を逸らす」って、
【見える範囲を広げる】という意味で捉える事も出来るのかも分かりません。
それまで向き合っていた物事から意識を手放すという事は、
先刻まで自らが固執しこだわり探求し、
あるいは思考を縛っていた視野を【開放する】と表現する事も出来るのではないかと思うんです。
見る視点を増やす。
違う観点に切り替える。
それはつまり、「思考の柔軟さを取り入れる」という事でもあります。
目の前の障壁や逆行に真っ向から立ち向かえる心向きは、
【筋】というものを失わない為にも、
【自分】との繋がりを絶やしてしまわない為にも、
守り続けたい意志や地盤でもありますし、
失くしたくない意識でもあります。
ただ、それが【かたくな】になると、
「周りが見えなくなる」という可能性も同時に並走するんですよね。
顕微鏡を覗くみたいに、
一点に意識が絞(しぼ)られる事で全体の動きが見えなくなる。
総体的な把握が届かないから、
ふと視野を戻した時に今の自分がどこに居るかも分からなくなる。
一ヶ所に重きが置かれるあまり、
大元の【筋】を大きく外れる事もあれば、全体的なバランスを崩す事もある。
本懐を見失いかねない事もある。
これって絵画を描く時でもそうなのですが、
一ヶ所に集中して描き込んでいると、いったん離れて見た時に全体の構図が物凄くアンバランスになっていたりするんですよね。
部分的な主張が強いから、周りに布(し)いた線や配色まで圧されてしまう。
それによって一枚の【絵】としての均衡が取れなくなると言うか、
総体的なメッセージ性に欠けるんです。
「集中し過ぎる」という言葉をほんの少しだけ読みほぐすと、
「集中して 過ぎる」という二つの意味が見えて来ると思います。
それは、集中し過ぎる余り目的のものを過ぎる事。
「行き【過ぎる】」という事で、
「通り【過ぎ】」てもしまう事。
時として「集中し過ぎる」という事は、
物事の突破口や打開策が秘められた「ワード」や「景色」に気付き難くなるフィルターとも成り得るのかも知れません。
自らの手で、
気付き難くなる要因を作っているのかも分かりません。
「集中する」とは【盲目的】になる事ではありませんし、
「目を逸らす」とは決して【放棄する】事では無いんです。
一見、「逃げ」にも「停止」にも思えたものが自分の【転機】となる事ってあるのではないでしょうか。
「遠回り」にすら思えていた出来事が、
人脈を結び、手土産を拾い、可能性の裾野を広げる【ご縁の紐】そのものだったという事もあるのではないかと思うんです。
あらぬ場所から突破口が見付かる事って、
きっと誰しもが経験し得る事なんです。
ふとした意識の転換が予期せず解決の糸口となったり、
目の前の【壁】には縁もゆかりも掠(かす)りもしない趣味や場所や交流が、
思い掛けず課題の克服や着想のヒントになる事って往々にしてあるんです。
だって、避けようと逸れようと外れようと、
それが「出来る」という事は、
【そこから行ける道がある】という事なんですから。
そもそも「道」とは元からそこに設置されているでも用意されている訳でも、
況してやデフォルトやフローチャートで行き先が決められているものでも無くて、
自分が踏んだ経験や選んだ選択そのものの事を言うのですから。
自分自身が「道」なのですから。
だから目を逸らすや顔を背けるって、
何も「逃げる」という事では無いんです。
ただ、少しだけ【いきかた】を変えてみるだけなんです。
その為の視野の紐を緩める為に、
集中の縛りを解いて心の糸をくつろげて、
目を向けるものへ注ぐ緊張を和らげて、
【対象】とする物事からようやく目を逸らしてみる。
それは、肩の力を抜くとも思考の空気を入れ替えるとも、
はたまた新たな景色を取り込むとも言えるのかも分かりません。
頭の空気の入れ替える。
心の換気をしてあげる。
そもそも「逃げる」という事は【放棄する】という事では無く、
【生きる】という事なんですよ。