キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

「〜らしさ」が示すもの。

 

「自分らしさ」や「自分らしく」が暗に示しているのって、

【こう在りたい自分】の姿なのではないのかな、と思うんです。

 

自分が理想とする自分。

自分が目指したい自分。

自分が「そう在りたい」自分の姿。

 

 

 

だから「自分らしく」って、【ありのまま】という意味を一翼に担う一方で、

自分が【指標】としていたい場所でもある。

 

【ありのまま】の本来の意味は、

「実際のとおり」を伝える事で「事実のまま」を見せる事。

 

 

それを装飾や脚色なく見せられる事を「素直」と呼ぶとするのなら、

 

「ありのまま」って多分、一番楽な姿勢や力の抜けた状態と言うよりも寧ろ、

【主軸】や【目標】に近いんです。

 

 

 

この多義的な輪郭を持つ「自分らしさ」という言葉は、

自分のみならず周りからの意見として用いられる事も間々あります。

 

 

 

 

「あなたらしい」や「あなたらしくない」

 

 

 

 

 

こうした「自分以外の視点から見る自分らしさ」って、ある種のショックをも孕むと言うか、

思いもよらぬ角度から【自分】を切り開かれるというイメージがあるんですよね。

 

それは密閉された頭の空気を入れ替える【窓口】となる事もあれば、

物事の風向きを変える【スイッチ】と成り得る事もある。

 

 

 

人によっては自分の目指していたい姿を改めて振り返る機会を得たり、

初心に立ち戻る起点ともなったり、

自らを俯瞰する切っ掛けや新たな可能性を見出す手掛かりとして転じる場合もありますし、

 

また人によっては、真逆に振れる場合もある。

 

 

 

 

 

ここで表記する【真逆】とは、

お相手の言う「あなたらしい」や「らしくない」に自分の路線や指針を沿わせる、という意味になるでしょうか。

 

 

「自分らしさ」をお相手から逆輸入する、

という表現も出来るのかも分かりません。

 

 

 

例えばいつもとは雰囲気も毛色も違うファッションに挑戦したとして、

それを見た誰かから「似合わない」や「あなたらしくない」といった感想や指摘を受けたとする。


それによって、お相手の言う「らしさ」に自分を軌道修正するような。

 

 

或いはお相手の言う「あなたらしさ」に自分を寄せて行く内に、次第に自分の「らしさ」を削ぎ落して行く様な。

 

はたまたお相手の【意志】や【意見】に自分を載せて行く事で、「自分はどうしたいのか」という軸足を徐々に間引いていく様な。

回を経る毎に【自分】との繋がりを差し引かれていく様な。

 

そんな印象も同時並行で抱きます。

 

 

 

 

これらは学生や社会人関係無く、

私含め誰しもが少なからず経験される事なのではないのかな、と思うんです。 

 

 

 

普段はカジュアルファッションやパンツスタイルの多い女性が「偶にはスカートや可愛らしい服を着てみたい」と思っても、

冷やかされたり色めき立たれるのを懸念して【いつも通り】の当たり障りない色味や服装に選択肢が絞られる。

 

 

 

「いじられキャラ」や「お姉さんキャラ」といった「〇〇キャラ」に自分が当て嵌るとするのなら、

そのキャラにそぐわない装いなり言動を無意識的に回避したり。

 

  

こう考えると「あなたらしい」や「自分らしい」って、

 

【いつもの自分】、【いつも通りの自分】、

それから【自分が目指していたい自分】という表現以外にも、

 

【周りに見せたい自分】、或いは、【周りが望む自分】、【周りが見慣れた自分】とも言い換える事が出来るのかも知れません。

 

 

 

 

 

時には周りの反応に自分を添わせていく事も、

そのように努めていく事も、

人の【和】を守り協調や共生を下地とする活社会では欠いては行かれない地盤です。


その側面で「〜らしい」や「〜らしくない」って、

協調や共生の中だけでなく日常のふとした一コマにも割と多いと思います。

 

 

 

周囲から何気なく伝えられる感想なり反応で、途端に「自信」を無くしてしまう事もある。

 

でもそれって、【心】を持つ生き物にとっては至極自然で真っ当な心理なのだと思うんです。

 

 

 

 

何故なら、作品を作るにしても、資格の取得や留学や、今まで無かった【分野】に枝葉を伸ばして行くにしても、

それらは「新しいことに挑戦する」という事に変わりは無いのですから。

 

 

 

【いつも通している路線】ではない型に自分を通しもするのですから、

未開の地を踏むのですから、

その地盤が不安定なのは自然の法則と言って良いほど当たり前の事なんです。

 

不安なんです。新しい事って。

 

 

 

 

 

だからその地盤を【慣らす】為に、

踏み固めてあげる為に、

 

外堀を埋めると言うか、型を固める為の【確証】として周囲の意見が必要なんです。

だからこそ周りの視線やリアクションに対して鋭敏で繊細な感性が求められるのだとも思います。

 

 

 

自信の【型】って、

周りの笑顔や認めてくれる言葉によって固められもするものだから。

 

 


そうしてもしも「似合わない」や「らしくない」といった意見を受けたとして、

 

その殆どは多分、皮肉や悪気を込めて投じられた言葉では無いものだと思いますし(私の希望的観測も含まれてはおりますが)

況してやその大半は、他意や作意を含まない言葉ばかりだと思うんです。

 

ただ純粋で、率直な意見。


裏を返せば、そんな混じり気無く純度の高い感想だから、一層研ぎ澄まさた言葉と成って心に刺さりもするんですよね。

 

 

 

 

要は、その言葉を貰った際に自分がどう受け取るかという所に重点は置かれるのだと思います。

自分が「それ」をどう解釈するかにその後の分岐は委ねられる。

 

 

表情や言葉や音の響きは飽くまでも、

自分が発展したり情動したりリアクションする切っ掛けの一つに過ぎませんから。

 

結局はその言葉を材料にして、

自分がどう解釈を組むのか、発展の指針を決めるのかに、

今この瞬間の采、挽いては自分の人生の構築は託されるのだと思います。

 




「あなたらしくない」って、一見すればネガティブな印象に傾倒しがちな響きではありますが、

 

別の視点から見てみると、それは普段周りに見せていない自分の【一面】を開示した、という捉え方も出来るのではないかと思うんです。

 

普段見せない、見せられない一面を誰かに見せる事が出来た。

或いは、表現して行けた。

そもそも「らしさ」が【そう在りたい自分】や【目標】に近しいのだとするのなら、

そのらしさは「らしくなさ」という陰の面や礎に支えられて表される表層でもある筈です。

 

 

 

それに気付いてくれた人が居た。

見て居てくれた人が居た。

知ってくれた人が居た。

 

それは、自分の【路線】をひとつ増やす事が出来たとも言う事も出来るのではないかと思うんです。

自分という多面体がひとつ増やされた。

 

 

 

「自分らしくない」、「あなたらしくない」という言葉が例え、

自分の弱さを垣間見せた結果でも、

自分へ挑戦した先での反応だったとしても、

 

それはお相手から見える自分の【一面】をひとつ増やされた、という事に相違無いんです。

 

 

 


それが例え本意でも不本意でも、

普段見せなかった、又は見せられなかった自分の一面を見せられた。

開示する事が出来て表層出来て、外在する事が叶えられた。

 

それって、自分の殻をひとつ破る事が出来たと言えるのかも分かりません。


つまるところ「自分らしく生きる」って、

「自分が目指したい自分を目指して良いんだよ」

というエールなんですよね。

 



大切にしたいのは、「~らしい」で自分の可能性を間引かないこと。

これまでの「自分らしさ」に、この先のレールまで敷かれないこと。

 

そして誰かの言う「あなたらしい」に、

自分の【らしさ】まで奪われないことなんです。


 

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