誰も傷付けない人というのは、
【人に影響を与えない人】と言い換える事が出来るのだと思います。
そうして「上手く立ち回れる人」が居るのだとしたら、
それは自分が行動した先を予見出来る【未来が見える人】くらいのものなんです。
更に言うなら「上手く立ち回ろう」とする人は、自分に瑕(きず)を付けたくない人です。
自分に【瑕】を付けたくない。
それはつまり、人に【傷】を付けたくないと言う事です。
「傷」と聞くと悪い印象が先行しがちですが、
「傷」とは言わば、相手の心に影響を及ぼす行為の総称なのだと思うのです。
相手の心を揺らす選択。
相手の心に響く言葉。
相手の心を動かす言動。
それらが総じて【傷】なんです。
傷とは、相手の心に「遺る」事です。
相手を傷付けないとは、同時に相手の心に【印象】という傷を付けないと言う事でもあります。
相手にとっての【無感動】な人が【人を傷付けない人】なんです。
人の心に寄り添う時、
自分をそうさせる想いとは果たして何なのでしょうか。
相手を傷付けたくて人は優しくするのでしょうか。
仮にそれを「詐欺」や「愉快犯」と呼ぶとして、
その【優しさ】に思い悩む感情を、
一体何と呼ぶのでしょう。
呵責する心があるとして、
それはどこから来るのでしょう。
傷付けるかも知れない。
自分が動いた先の未来がどうなるかなんて分からない。
だけど今ある想いに【悔い】は遺したくないんです。
「遺したくない悔い」とは何でしょう。
「今ある想い」とは何なのでしょう。
その根底にある【差し置いて行けないもの】こそ、
貴方の【想いの本流】なんです。
もしも優しさで苦しめる事があるとして、
慮りが痛ましさを生むとして、
貴方は【優しさ】を捨て置いて行くのでしょうか。
【慮り】を差し置く事が出来るでしょうか。
仇になるかも知れないし、
押売りなのかも分からない。
相手がどう思うかなんて動く前から分かる訳無い。
予見なんて出来る筈無い。
どう展開するかも応酬するかも用意も予測も出来ない中で、
唯一「分かる」事が出来るものは、
その時の自分が「どうしたいか」という事です。
どちらの身の振り方に自分の心が頷けるかと言う事なんです。
どんなに煮え湯を飲んだとしても、
責め苛む事になろうとも、
今この瞬間の自分まで「嫌い」になる選択を選びたくは無いんです。
自分が【そうで在りたい自分】から背きたくも無いんです。
それを【意思】と呼ぶんです。
他の誰でも無い、貴方が貴方に納得出来る「【自分】を愛せる自分」なんです。
貴方は、この先の自分の利害でも無く相手にもたらす損益でも無く、
相手の【今】を見ているんです。
大切にしてもいるんです。
だから【今】行動するんです。
寄り添うんです。
傷とは触れなければ付ける事も叶いません。
触れられる場所まで届かなければ、そもそも【傷】なんて付かないんです。
貴方の周りに居る人は、漏れなく誰もが貴方からの【傷】を心に持っている人です。
貴方の行為に言葉に選択に、【傷】を付けられた人なんです。
そして貴方もまた、その人達から付けられた【傷】を心に持っている筈です。
その傷が愛おしくて仕方ないんです。
だから傍に居るんです。
貴方が誰かを傷付ける事が出来るのだとしたら、
それは心に波風を呼べる場所にまで、
貴方が相手に届く事が出来る人だと言う事です。
「人の心を動かす力」があるんです。
貴方の言葉で揺れる人が居るならば、
それは貴方が、相手の心に触れる事が出来る人だと言う事です。
一緒に痛くなれる人なんです。
そして何より、貴方は自分に【瑕】を付けられる人なんです。
例え傷が返って来てもしっぺ返しに遭ったとしても、それを何度繰り返しても、
「それ」を決して手放さない頑固さを持てる人なんです。
そんな自分を守りたいと願える貴方が今持つ【瑕】を、
「守りたい」と思えない訳が無いじゃないですか。