「相手によって態度が違う」
そう感じて自己嫌悪に陥ってしまったり、
そういった方に嫌悪感を抱いてしまう方もいらっしゃるかと思うのです。
ただ個人的には、
相手によって接し方を変えるのは至極当然の心理であり言動なのだと思っています。
何故なら、人は興味の無いものへ対して心を動かす事が出来ない生き物だからです。
相手によって異なる感情の振れ幅は、
そのまま相手に対する興味や関心のバロメーターです。
メトロノームのように、
誰へ対しても一律の振れ幅と一貫した態度を取れる方がいるのだとしたら、
それは恐らく、
他人に興味を持てない方を指すのでしょう。
相手によって変わる対応も、
覗かせる表情も、
自分という多面体の一部です。
「こんなの本当の自分じゃない」ではなく、
「こんな自分も本当の自分」なんです。
「どれが本当の自分か」ではなく、
「どれも本当の自分」なんです。
重きを置くべきは自分探しをする事でもなければ、
至らなさを嘆く事でもありません。
況してやそんな自分を諫める事でもないんです。
自分を変えるとは、
必ずしも自分自身の言動を改める事とは限らないんです。
そしてそれは善悪の分別を見定める事でも、
道義や非道徳の見境を付ける事でもない。
きっとそういう話じゃないんです。
だって自分を責めてしまうのは、
大切な人が居るからでしょう?
相手を想う程に自分を嫌いになれるのは、
誰よりも優しくありたいからでしょう?
自己嫌悪に陥るのは、
あの日傷付いたあなたが、その時誰よりも泣いたからでしょう?
あの日のあなたが、今のあなたをそうさせずにはいられないんでしょう?
相手の些細な心の傷にも敏感で、
誰よりも相手の痛みに繊細で、
他の誰よりも心を近くに捧げたい。
相手の苦しみが自分の苦しみでありたくて、
相手の悲しみが自分の悲しみでもあってほしくて、
そうして何もかもが鏡でありたい。
受け入れられる自分でありたくて、
強い自分でありたくて、
そんな自分を愛したくて愛される事を許されたい。
大切な人に甘えて貰えて、
大切な人の拠り所になれて、
大切な人を許せる自分で居たかったのでしょう?
それを許される存在でありたかったのでしょう?
大切なのは、善悪の分別を見定める事でも、
道義や非道徳の見境を付ける事でもありません。
言動の美醜を問う事でも、
感情の優劣をつける事でもないんです。
ただ、「ゆるして」あげて欲しいんです。
許されたい自分を許してあげてほしいんです。
許せない自分も許してあげてほしいんです。
自分を肯定出来るから、
周りの事も肯定出来るようになるんです。
自分を許す事で、
周りも許せるようになるんです。