キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

自分自身への戒めとして残します

 

破茶滅茶に楽しくて、

 

本当に皆面白くて最高だったのに。

 

 

配信を観終わってから今の今まで、

後味の悪さしか感じない。

 

ひたすら自己嫌悪の波に呑まれてる。

 

 

勝手に覗いて勝手に笑って

勝手に批評して勝手に気分悪くなって

 

自分の正当性の理由にしてる。

 

 

 

相手の品性も無かったけど、

 

自分も大概、品が無い。

 

 

道徳も習俗も極端に言えば、

国民アンケートの大多数を「常識」と呼んで皆の総意にしているだけで、

 

モラルなんて押し付けるものじゃなかった。

 

誰かを「否定」する材料でも無かった。

 

 

 

誰かを否定して自分を正当化するなんて最低だ。

 

少なくとも昨日の私は、

同性恋愛や肌の色を差別する人とまるで同じだ。

 

 

 

誰がどうこうと言う話じゃ無い。

そう言う話じゃない。

そう言う事を言いたいんじゃない。

 

これは全部、自分の価値観の話で道義の話で、

要は自分の気持ちの問題で。

 

だからこれは、どこまで行っても自分の所為で、

 

 

自分が自分に課して負うべき責任とけじめの問題なんです。

 

 

自分の価値観で物を言うなら、

同調こそ出来なくても

批判して良い理由にはならない筈だった。

 

見えない所で後ろ指さして良い訳無かった。

 

 

そういう人も居るのだと、

受け入れて「知る」べきだった。

 

器を広げるべきだった。

 

況してや矢面に挙げて押して弾いて嘲笑う事を許される行為な筈がなかった。

 

 

 

嫌だと感じたからと言って、

自分まで「嫌なもの」に成る必要がどこにある。

 

誰かを嗤うのは、自分を嗤うのと同じだ。

自分を堕として辱めるのと同じだ。

 

 

 

意思は貫くべきもので、

相手を断ずるでも押し付けるでも、

 

批判するでも捻じ曲げるべきものでも無い筈だった。

 

自分の価値観に後ろめたさを残す行為なら、

見られると嫌なものならば、

 

「嫌なもの」だと分別がついているのなら、

 

 

 

そもそもやるべきでは無かった。

 

 

自分がやられて嫌だと思うものはやらない。

 

 

子供の頃からの学びの筈だった。

 

その人へ向けた嫌悪の情は、

そのまま自分自身の醜さだ。

 

 

自分を断じろ。

自分を恥じろ。

 

昨日自分が批判し笑ったその人自身に感謝しろ。

気付かせてくれた相手に感謝しろ。

 

他人はいつだって、

自分に気付きを教えてくれる自分自身を映す鏡だ。

 

自分を顧みて自分を律して、

これを自分の学びにしろ。

 

 

後悔を教訓へ転じさせろ。

 

 

 

ちゃんと自分の糧にしろ。

 

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