キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

私の発言と行動に望むものはディベートではなく、 私そのものの貫徹です

 

私は私の身から出た言葉を

 

私自身を正当化する為の理由付けにはしたくありません。

 

 

故に押し付けも押し売りも断じてしたくはないんです。

 

 

 

私の言動に根を張る主軸は

 

これまで生きて来た人生であって、

自分を自分たらしめるものを思い知る為でもあって、

 

 

それらは総じて、自分自身への戒めです。

 

 

 

いつだって私の言動の根幹にあるものは、

私自身の確立です。

 

 

私の発言と行動に望むものはディベートではなく、

私そのものの貫徹です。

 

私はきっと、自分にしか興味がないんです。

 

 

 

だからいつも相手を介して、

周囲を挟んで、

 

常に自分を見ているんです。

 

 

決まって自分の姿を重ねるんです。

 

 

 

拘りに固執したくはありませんし、

気骨に言動を縛られたくもありません。

 

頑なにも成りたくない。

 

しかしだからと言って、

 

一度口にして外へ放った台詞を放し飼いにして置き去りにしてしまえる程の、

神経の図太さを手に入れたい訳でもありません。

 

 

 

況してや容易に手の平を返せてしまえるような、

誰かに自分の筋道を託して委ねてしまえるような、

 

縦横無尽なイエスマンにも成りたくはないんです。

 

 

 

先入観は視野を狭める材料ですし、

情報を更新する際の妨げにも成りますのでそもそも好みません。

 

思考を占有する固定観念も持ちたくはありません。

 

 

無論、強迫観念に追われるのだって勘弁です。

 

 

 

だから私は、私その物の意思を他者にまで要求したくはありませんし、

期待するリアクションを求めている訳でもありません。

 

考えを押し付ける気も、

感覚を押し売る気も、

 

 

それこそ更々無いんです。

 

そんな相手の味覚に尾を引く様な甘怠さなんて反吐が出ます。

 

 

私の一見解に対する異論も、

誰かの水面下で挙がるであろう批判の声も、

 

その一切を否定したくなど無いんです。

 

 

選び抜いた言葉の真理も、

台詞に乗せた相手の真意も、

 

返す刀で切り付ける気にはなれないんです。

 

 

 

何故なら、一個人の価値観や発言という一冊の文献に対して元来 重きを置くべきなのは、

 

背表紙に書かれたタイトルではなく、

タイトルから受け取るイメージでもなく、

 

表紙を開いた先で敷き詰められた頁の中にこそあるからです。

 

 

 

意識を向けて注視すべきなのは

 

言葉という形その物では無く、

行動という事象その物でも無く、

 

その言動へと辿り着いた発信者本人の背景にあり、

 

或いは一節の文章を、

その言葉を以て句読点を打つに至った筆者の真意を汲み取る事にあるからです。

 

 

 

 

だからこれは、私の単なる嗜好の問題なんです。

 

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