キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

【自分が嫌い】なのではなく、 【自分を肯定する事に否定的】なのだと思うのです

 

個人的な意見を言わせて頂くと、

この世の大多数の方々は自分の事を愛していますし、

心の底から自分の事を「嫌い」だなんて思っていません。

 

思える筈が無いんです。

 

 

本当に嫌いなら友達をつくったりしませんし、

誰かに恋なんてしたりしません。

趣味が出来たり好きな食べ物があったりもしません。

 

行きたい場所を見付けたりもしませんし、

メイクをしたり新しい服を買う等して自分を着飾ったりもしません。

 

そうやって「嫌いな自分」を楽しませようとする行為をわざわざ選んだりしないんです。

 

「嫌いな自分」の心を充足させたいなんて思えませんし、

独りの時に人恋しさを覚える事もありません。

 

 

他者から心無い言葉を浴びせられて傷付く事もありませんし、

癒しや労いを求める事もありません。

 

 

「幸せになりたい」なんて、

断じて願ったりしません。

 

 

結局何が言いたいのかと言えば、要は皆、

【自分が嫌い】なのではなく、

【自分を肯定する事に否定的】なのだと思うのです。

 

今誇れる幸せ、今自分に出来てしまうものを「大した事では無い」と【評価】を控えたり、

これが出来る、持っていると認める事に後ろ向きだと言えるのかも分かりません。

 

至らなさを開示し受け止める事は弱さを認める【強さ】を育てる理由にはなろうとも、

 

自分を否定する「口実」には成り得ません。

 

 

 

これは日本人特有の国民性故なのかも知れませんが、

私達って、潜在意識的に自分自身に打ち消したり悲観的に捉える事を一種の【美徳】として認識している面が少なからずあるんです。

 

感傷的、センチメンタルといった言葉表現もその内の一つに入るのではないでしょうか。

 

 

 

これは驕り高ぶらず、自分を保つ為に必要な戒めの言葉でもあるのではないかと思うんです。

 

この国古来の呼び名に変換するなら、「奥ゆかしさ」や「謙遜」とも言い表す事が出来ます。

 

自分をへりくだる事を一種の礼節として、

日々の生活や活社会の中で根付かせ続けている面がある事もまた確かです。

 

只ここで厄介なのは、

そういった「礼節」なり「習慣」は、やがて【自身】という個人そのものが発現し起こす「言動」とも結合して行きかねないという事です。

 

自分が目にし耳にし口にして来た発言なり行動は、

その人が育み培っていく【思想】や【価値観】へも投影されて行くものです。

 

波紋をもたらすもので有り、

影響を及ぼすものでも有ります。

 

 

更に言うなら謙遜やへりくだりは極端に言い換えれば【否定】です。

 

私達は日々、活社会で生きて行く上で日本人としての礼節を弁えた行動を選ばざるを得ない環境下にあり、

自己否定の言葉を使わざるを得ない様な生活下に身を置いています。

 

そして後ろ向きな言葉と言うのは、

前向きな言葉以上の浸透力と洗脳力を持っています。

 

 

 

否定的な言葉は自分を【否定】します。

 

そして自分を否定すれば自分を「嫌い」になるのです。

 

因みにここで言う「嫌い」とは、

【自信の喪失】と言う意味を指しています。

 

【自信の喪失】は【自身の喪失】です。

 

 

 

自分を「嫌い」になれば、自ずと自身の持つ発言にも自信が持てなくなり始めます。

【自分軸】が【他人軸】へ遷移するとも言い換える事が出来るでしょう。

 

自身の発言に自信を持つ事が出来なくなれば他人との交流が怖くなり、

他人との交流が怖くなれば自ずと行動範囲も狭まります。

 

そして行動範囲が狭まると言う事は、

これから起こるであろう可能性を失くして行く【見込み】を生むという事でもあります。

 

自分の可能性を狭めて行き、

自分の未来を狭めて行く。

 

だからこそ此処で言いたいのは、

偶には自分に「好き」だと伝えてあげて欲しいという事なんです。

 

「自分は出来る」のだと、声高々に自慢してあげて欲しいんです。

こんなに凄いと。こんなに出来ると。

自分はこんなに【幸せ】を公言する事が出来るのだと。

 

今ここに居る事を、大切な人が居る事を、

大切だと思える人達が居る事を「幸せ」だと呼んで良いんです。

それが【言える】環境なんです。

 

嘘でも上辺ばかりでも良い。

言葉に興してあげて欲しいんです。

【形】として置いてあげて欲しいんです。

 

 

心の声を、

心からの声を、

外気に触れさせてあげて欲しい。

外に出して、言葉を自由にしてあげて欲しいんです。

 

否定の言葉が自分を否定するのであれば、

肯定の言葉は自分を肯定してくれます。

 

自分を肯定出来るという事は、

自分を「好き」になれると言う事です。

「好き」だと認められる【見込み】を生めるという事です。

 

【自信】を持てるようになるという事でもあり、

【自身】を持てるという事でもあります。

 

他人軸から自分軸へ【回帰】出来るという事でもあるのではないかと思うんです。

 

自信が持てれば自ずと自身の言葉というものが生まれますし、

自分を尊重する事で他人を尊重する事も出来ます。

 

自分を肯定する事で他人を肯定出来るようになり、

肯定される事によって、相手も自分を肯定出来ます。

【認め合う】、【渡り合う】という事が出来るようになるんです。

 

結果として周囲との交流を開き人脈を育み行動範囲を広げられるようになって行く。

行動範囲が広まるという事は可能性が広まるという事です。

 

 

可能性が広まるという事は自分の未来が押し広がるという事です。

総じて言葉に興す事、現実に起こす事、

言語を動かすという事は、【未来】を動かすという事です。

 

だから言葉にするんです。

「幸せ」だと。「大好き」だと。

「自分は出来る」と。「自分は凄い」と。

 

そして謙遜の言葉は自身の大成や成長の【証】として使って頂きたいんです。

 

実る程に頭を垂れる稲穂の様に。

 

 

くれぐれも、謙遜の言葉が自らを貶め自身を下へ引率する言葉とはなってしまわぬように。

 

謙遜と弱気は似ているようで相異なる言葉ですから。

なりたい自分が居るのなら、まずは言葉にしてあげる事。

 

言葉に興してあげる事で、

【現実】に起こしてあげる事。

 

幸せになりたいと思うのであれば、

先に【幸せ】になる事です。

「幸せだ」と言える事から【幸せ】はスタートダッシュを切れるんです。

 

 

 

過去がどうだったとか、「こんな事を考えてしまう私が」とか、

そんなのどうでも良いんです。

 

欠点や嫉妬や後ろめたさが有るから幸せになれないのだとしたら、

この世界中で幸せになって良い人なんて只の一人も居ないんです。

 

自分の幸せにくらい、

 

 

 

少しは理不尽になってみても良いじゃないですか。

 

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