「重きを置く」の「重き」が指し示す言葉表現には、
【重点】や【重視】、【重大な事】と言った趣旨が既存の部分として存在します。
本質的な意味としては勿論これなのですが、
個人的に「重きを置く」とは、
「【趣(おもむき)】を置く」事と勝手に解釈しています。
「趣」とは「気持ちの赴く」場所であり、
それは転じて「心の動き」を意味します。
「心の動く」ところであり、
「赴く気持ち」の向かう先。
そこに在るのは「思い」です。
「重きを置く」とは、「【思い】を置く」事なんです。
思いのありたけを置くところ。
思いの深みに落ちるところ。
分銅を載せた天秤のように、
磁場に運ばれる羅針のように、
否が応にも抗おうにも、
心攫われ心傾け、
心持って行かれる指針の先。
だから「重きを置く」とは「思いを置く」事だと、
私はそう捉えるようにしています。
一方的な見解であり個人的な認識ではありますが、
実際の語源や意味解釈に関係なく、
私としてはそちらの方が自分の中の的を射るというか、
言葉が素直に腑に落ちるんです。
重さを伴うものが「思い」と呼ばれるものであり、
心臓の奥まった場所なのか宇宙なのか、
とにかく「それ」が胸の極まった場所から込み上げる時、
いつも深海の淵とも井戸の果てとも取れるような、
そんな底知れぬ底を感じずには居られません。
重力を押し上げるように。
空気の塊を持ち上げるように。
ひしめく土の層を渡るように。
網目を縫って伝うように。
そうして湧き出る水のように。
この得体の知れない「もや」を文字として象り起こす時、
決まって鉛を吐き出すような胸苦しさを覚えます。
言葉って、生半可な気持ちで口に出来るものじゃないです。
大なり小なり、それ相応の覚悟が求められます。
だからそうして我が子を産むように慈しんだ言葉を、
もしも誰かが何かの拍子に揶揄する事があるならば、
多少なりとも傷付きはすると思うんです。
それこそ、「それ相応」に。
ただ「揶揄」ではなく「否定」であるなら、
話はまるで変わります。
もしも私の言葉に対して反ずる思いがあるならば、
私の意見を否定する事でその人の中で気付けるものがあるのなら、
私の考えや発言をトリガーとして、
その人の内側から自発するものがあるのなら。
もしも、その人自身から芽生えた感情があるのだとしたら、
私は進んでそれを望みたいと思うんです。
今この瞬間、誰か一人でも私の発言を否定してくれる方が居るのだとしたら、
論じて下さる方が居るのなら。
それは私の言葉を種火にして、
紛れも無くその人自身の意思として発現し、
その人だけの意見に変えてくれたという証でもあると思うんです。
紛れようも無く、その人の芯から出た思い。
他の誰でもなく、その人の血が通った言葉であり、
それはその人の誇るべき意思。
そしてその意思は、自分を肯定出来ているという何物にも代えられない証拠でもあると思うんです。
その思いこそが、自分を認めてあげられているという、
何よりもの根拠付けにもなると考えています。
認めてあげられているという事は、
例えどれだけ「自分を嫌い」な人であったとしても、
"こんな自分"から溢れた思いを、
脈打つ言葉を、
潜在意識的に自分自身が受け入れてあげられているという裏付けでもあるんです。
その裏付けの切っ掛けに成れるのであれば、
私は進んでそれを望みたい。
そんな事を思っていたりする訳です。
肯定する為の否定されるべき言葉でありたいんです。