キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

2エピローグ5エピソード

 

下から上へ。

親指を滑らせる画面の下で流れる万目の川を目にした時、

 

の一番にこの身を過ったのは、

「この先もう、あの方々の笑顔に出会えなくなってしまうのかも知れない」という途方もない不安と、

 

身体の先から凍えて行く様な果てしなく始まる恐怖でした。

 

 

 

消えてしまったらどうしよう。

 

アーティストとしてとかではなく、それよりもっとずっと以前の話で、

人としていなくなってしまったら。

 

 

命が絶えてしまったら。

 

 

 

 

被害者である方側ではなく、件の要因であり発端でもある加害者側の心配と不安が先に走ったのは、

「保身」と受け取られても仕方のない思想であり愚行だったのかも分かりません。

 

 

 

それでも私には、モラルも規律も人道も恥も掻き捨てて、

その方々が誰よりもの優先事項だったんです。

 

 

 

 

 

心の中心に根を下ろしてしまう程、

真に迫ってしまう程、

自分自身の軸となってしまう程に、

 

これまでの路上でも箱ライブでもそれ以外でも、

あの方々から受け取ったものはきっと大きかったから。

与えられたものは壮大だったから。

 

 

 

 

 

目の前で揺れる かがり火が霞んで見えてしまう程、

その方々の存在は自分にとっての星空だった。

 

 

どうしたって何があったって、

 

揺らがず引き抜かれぬ【根】を心に張れてしまう程、

皆さんと過ごした年月も貰った言葉も信頼も、

 

 

 

 

 

 

私には甚大だったんです。

 

 

 

偏った見方をせずには居られない程に、

心が傾いてしまう程に、

傾倒してしまう程に、

 

 

こちらから投じる気持ちも皆さんから受け取る声も、

 

今更軽量ではなかったんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この数日間は、

それこそ夜も眠れぬ日々を越えて来たのだと思います。

 

時には外へ出る事も憚られてしまうくらい、

行き交う人々に触れる視線が、

自分から発する声のひと節それさえも、

 

全てが自分を責め苛んでいる様で。

 

全てが拒絶される要因になってしまいそうで。

 

 

 

 

 

後悔の循環と自責の重複、苦悶の反芻に絶望の応酬。

苦言を呈する方々よりも、

心配して下さる同志やご友人、ご家族よりも、

不安でならなかったファンの方々よりもずっと、

 

それこそ天と地ほどの距離と次元で、

皆様は皆様自身を責め続けたのだと思うんです。

 

叩き続けていた筈です。

 

 

 

 

今も尚、収めて余りある悔やみと呵責、自らに対する失望に、

何度も何度も踏み跡を付ける時間が浮上するのかも分かりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

幾度となく重ねたであろう話し合いと意見交換。

露命を繋ぐように下積まれた時間の上で皆さんが結ばれた答えは、 

 

これからの時間を懸けて、

そして一生の内の幾分かの命を充てて、

 

体現してゆく【誠意】であり【姿勢】なのだと思います。

 

 

お互いの腹を裂きながら心を割りながら、

吐き出す様に【実動】した一歩です。

 

 

 

その姿勢への一足として「現在(いま)」を動かされた皆さんの総意は、

今という枠組みから踏み出された【断魂】は、

 

こうして拝観、拝聴させて頂いている側が受ける以上の意義を伴って行くのだろうと思うんです。

 

 

 

 

「一生」とか「命を充てる」とか、

こんな言葉表現を、中には「大袈裟だ」と捉えられる方もいらっしゃるかと思います。

 

 

 

 

 

それでも。

 

 

例え大袈裟でも誇張に聞こえていたとしても、

 

現実にこれを行う当人方とそれを支える自分達には、

まさしくその通りの【腹積もり】と【心積り】で臨む姿勢が求められるのだと思うんです。

 

これはお相手側の気持ちが、とか世間様の視線が、等の範囲で収まる話ではありません。

 

 

その前段階にある「自らの意志」と、

自身へ付ける誠意とけじめの問題です。

 

 

 

 

 

 

 

一度失った信用と失墜した信頼は、やはり一朝一夕で補填、充当が叶うものではありません。

 

気力も根気も心意気も必要です。

 

また、丹精な修復と紡ぎ直しには相応の時間を要しますし、

再びの声援と激励を賜れるようになる為には、

これまで重ねて来た以上の歳月を伴うのだとも思います。

 

 

 

しかし例えどれだけの誠意をお見せしても、

体現して下さっていたとしても、

 

それを「見て下さる方」が居なければ【反映】する事は叶いません。

 

 

見留(みと)める方々が居てくれて初めて、

彼らの誠意は【存在】する事が出来るんです。

 

人ひとりの視界に止まって意識に留まって、

見る人の世界に居られてようやく、

 

 

 

彼らの姿は【事実】として残る事が出来るんです。

 

 

だからこそ今の彼らには、そして今後の彼らには、

 

永い年月を掛けて「見守ってくれる存在」が必要です。

彼らを「見てくれる人」が必要なんです。

 

 

 

これからあの方々が一つ一つ起こされてゆく至心には、

それを知って下さる【心の余剰】と、

意識の内に置いて頂ける【器量】が共に求められます。

 

謝罪も感謝の言葉でも、一人では実を結べない。

 

 

 

 

 

誠意には、協力が必要です。

 

 

 

 

 

 

 

彼らの真摯さを懸命さを切実さを、

【真実】としてだけでなく【事実】として存在させてあげる為に。

 

【現実】で在らせてあげる為に。

 

 

 

これは、この七日間を経た私の意志です。

 

 

 

 

 

 

 

きっとこれからだから。

再起するのも再興するのも、そこへ至るまでの道のりも、

まだ始まったばかりだから。

 

まだ白紙で、まだ未知で。

だからこの「未知」を、これから【道】にして行くのだと思います。

 

一緒に踏み固めて行くのだとも思うんです。

 

 

 

その為の「先ず」の一歩目を、今はまだ踏んだだけだから。

指針を振ったばかりだから。

 

今はまだ、私から用意出来る言葉の数は僅少です。

 

 

 

それでも自分は、自分達は、

皆さんの声も言葉も表情も、確かに見届けていました。

件へ至るまでの経緯に、当日の話し合いと決行に至った背景と理由。

今後へ向ける活動と謝意。

 

誠心誠意を以て伝えて頂きました。

誠心誠意を以て受け取らせても頂きました。

 

 

 

お話される内容につきましても、

何度も何度も確認や修正、加筆と添削を重ねて発信された説明だったと思うんです。

 

託された言葉達だと思うんです。

 

今皆さんが持てるだけの尽力がそこに在りました。

 

 

 

 

 

 

批難や苦言、再び振り上げられる拳もあるであろう中で、今やるべき事を洗い出してくれましたし実行してもくれました。

 

沢山の意見を頂きながら、

指摘も向かい風もありながら、

 

 

四方に横たわる思想と横薙ぎの声の中で【選択】を続けてくれました。

「今日」を掴んでくれました。

 

 

 

 

 

きっと、私達が知り得ぬ苦悩や遣り取りが沢山あったと思うんです。

 

SNSでの謝罪や今日という日に立つその下で、

どれだけの重石と重責が敷き詰まっていた事か。

どれ程水中を掻きながら、バタ足を繰り返しながら、

 

今私達から見える場所に立って下さっている事か。

 

「日常」を並行する中で、

誰よりも今回の件に向き合い続けて来てくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

当人である皆さんからは言えない言葉でしょうから、

一個人であり一ファンからの厚かましく差し出がましい台詞として、

 

代わりにお伝えさせて下さい。

 

 

 

 

 

 

彼らはよく頑張りました。

懸命に受け止めてくれました。

気丈に発言してもくれました。

 

 

Twitterのリプライを制限したのは、

ご自身達の「命を守る」行動であったと共に、

それらの文言から皆さんの【心】を守りたかったからです。

 

 

 

ご自身達の為に心を傷められる姿も、憤る姿も知って下さっていたからです。

ずっと皆さんを見ていて下さったからなんです。

 

 

 

本当の【お人柄】というものは、

 

踏み外しや躓きなど、

自身が「余裕を無くした時」に垣間見えるものであり、

触れられる心根なのだと思います。

 

 

 

この七日間、

皆さんは支えて下さる周りの想いと自身の心、

そしてクリエイターの方初め、これまで関わって下さった方々の気持ちを最大限に尊重した行動をずっと探し続けてくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は彼らを、誇りに思います。

 

 

 

 

 

 

 

今までもこれからも、自分達は変わらず皆さんを見ています。 

ずっと見届け続けます。

 

直接お会い出来ない日があっても、

画面越しでも、

 

視界には直接映らなくとも。

 

 

 

 

 

そしてそれは、何もあなた方自身の活動のみには留まってはおりません。

 

あなた方へ向けられる心無い言葉と容赦のない「つぶて」と批難を見て来ました。

 

共に浴びても来たつもりです。

 

 

 

 

 

「非」がある事を分かっていたから。

自覚も自認もしていたから。

だからこそ鎧を捨て盾を捨て、雨と風と槍を凌ぐ防護壁を退けて、

 

あらゆる「叩き付ける言葉」をただ受けていた皆さんの姿を見ていました。

 

 

 

ご本人に成れない以上、

私達はあなた方の【痛み】を知る事は出来ません。 

 

分け合う事も叶いません。

 

共鳴や共感こそ出来ようとも、

あなた方が持つ【実際の感情】には成り得ません。

 

 

 

それでも私達に出来る「精一杯」の距離であなた方の痛みを飲みました。

飲み続けました。

あなた方の傍に居ました。

 

 

 

今までも今日もこの先も、あなた方はずっと独りじゃない。

 

個人的な解釈の話を挟むようで恐縮ですが、

【幸せ】の定義の一つって、「この人と居る幸せ」に並んで、

「この人と共にある【苦しみ】で在りたい」と想える人に巡り会える事なのだと思うんです。

 

だからこれからの痛みも迷いも切迫も、

あなた方だけのものにはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

どれだけ月日が経とうとも、「ほとぼりが冷める」事って無いんですよね。

 

【根】を張っていない方々なら、

地から抜けて風に煽られ、その記憶も時間と共に風化されて行くのが自然なのだと思います。

 

 

自らが置かれていった【言葉】という種さえも、 

投じた事すら「無かった事」になって行くのかも知れません。

 

その方から見える人生から、一片の塵もなく掃き出されて行くものなのかも分かりません。

 

その方が置かれていった言葉の【種】が、

例えどれだけ根を張り芽を出し育成し、置かれた側の心を蝕んで行ったとしても、です。

 

 

 

 

 

 

 

だけど、【根】を持つ者ならその限りではありません。

 

私達は私達なりに、皆さんが励まれる姿を見て来ました。

こちらが把握し得ない場所で、ライブのリハーサルや慣れないパート練習など、

 

何度も反芻して練習して来たのだろうという事も、

デビューから目を見張る勢いで、はたまた実際に見て分かる形でたちまちに成長されてゆく姿を見れば、

 

 

裏でどれ程の時間を充てられ努められ、

「より良い物を」と苦慮されて来た皆さんの後ろ姿を悟れない筈がありません。

 

路上ライブでも箱ライブでも、

ファンの皆様の目を見て会話する様に歌って下さる皆さんの姿、

ちゃんとずっと見ていました。

 

 

私達の存在をその目に「認めて下さる」皆さんのお顔を見て来ました。

 

 

 

 

だから言葉の槍にも風向きにも、グッと耐える事が出来たんです。

どれ程の罵声や根拠のない台詞達がそこに並んでいたとしても、

あなた方の優しさを、そしてひたむきさを知っているから。

 

声を張らなくても荒立てなくても、自分達だけは【知っている】から。

私達は【根っこ】を持っているから。

 

だから皆さんを「知らなかった」方々に倣ったり、

声を荒らげて【主張】する必要は無かったんです。

 

 

 

 

今皆さんの傍に居て下さる方々は、

共に心無い言葉に【血】を通わせて来た方達です。

心を伴わない言葉に、【感情】を通わせて来た方々です。

心を伴わせて来た皆さんです。

 

 

通わせるだけの日常と時間をあなた方と交わして来た私達です。

感情を渡し合い、育んで来た自分達です。

 

 

 

 

私達には、風にも時間にも攫われる事のない【根】があります。

皆さんとの日々があります。

【耐える】強さを持っています。

 

 

そしてその耐える強さは、

皆さんが一緒に育んで来て下さったもの達です。

 

だから風化する事はありません。

ほとぼりが冷める事もありません。

 

 

 

 

この先どれだけ言い古されても紛糾しても、議論に出される事があったとしても、

 

ここからは一緒に背負います。

 

 

 

 

 

 

 

「ファンはアーティストの鏡」なんていう言葉もありますが、

今皆さんを支えて下さるファンの方々のお人柄は、

そのままあなた方の【お人柄】に通ずるものでもある筈です。

 

人は常に、「こう在りたい」と思う方の元へと集うもの。尊敬する方を慕うもの。

 

 

攻撃性が優先されたり「他者否定」や誹謗をされる機会の多い方には、

それに【渡り合える】人だけが周りに残るのと同じように、

 

慮りや慈愛を携えて下さる方にもまた、

それに渡り合える方々が周りに残ってゆくものです。

 

同じように「思い遣り」や「労い」を配りたいと思わせてくれるものなんです。

 

 

 

 

もしも皆さんが今、周りの方々の優しさに支えられているとするのなら、

その【優しい世界】は皆さんが自らの手で築き上げたものでもあるという事を、決して失念しないで下さい。

 

謙遜も否定もしないで下さい。

 

 

 

ファンへ向けられる賞賛は、

同時に自分達へ向けられる賞賛でもあるという事を知っていて下さい。

 

自分達が携える誇り高さは、

そのままファン自身の誇り高さに通ずるのだという事に気付いていて下さい。

 

 

 

 

「ファン」って、アーティストを引き上げも押し上げもする【手】や【風】にも似た存在で在りながら、

躓いた時こそ【下地】に成れる存在なのだとも思うんです。

 

立つ為にも進む為にも、座る為にも横たわるにも、

【足場】はどうしても不可欠です。

 

 

 

 

皆さんが踏み出そうとした時、

あるいは腰を下ろしたいと思った時、

 

足の踏み場も無い程の声と批難の剣山がそこに敷き詰まっていたとしても、

 

 

 

 

私達の存在を、皆さんの【足場】にして下さい。

「皆さんを支えている方が居る」という事実を頼りに、

その確かな根拠を手掛かりに、 

 

 

 

どうかその足を振って下さい。

間違いなく「踏み締めて」いて下さい。

 

 

 

 

これまであなた方が過ごして来た時間の数が、

あなた方が配って下さった笑顔と声が、

交換し続けた信頼が、

 

今、あなた方の【踏み場】に成ります。

 

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