キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

張り詰めた糸に押し合い圧し合いたわんだ糸が、心の余剰と結び目に成る。

 

毎月20日と月末は締め日という事もあって、

金銭の出納も相応に活発になるんです。


そうした渦中に伴って、金銭の滞納や遅延、あるいは金額の相違といった故障や悶着も相応に付き物になっていく訳で。
  


先日もまた例に漏れず、先方から届いた一本のお電話で一日が幕を開けました。


お電話の内容は端的に言えば掛金のミスで、

取り扱い金額の差異に気付いたお客様が慌てて手続き申請の入電をされたというのがざっくりした一連の流れなのですが。




以前もこれと似た案件で対応させて頂いたものですから、先方も心なしか恐縮されている様子で、

お声もだいぶ緊張されていると言うか、ヒリついた印象を受けました。

 

 

只こちら側の言い分としては、

入金ミスや手違い以前のお話で、こちらが気付いて反応するよりも遥かに先に、早急に連絡下さった事が素直に有難かったんです。


「有難い」と思える自分が居たんです。

 



だから体(てい)や模範解答や、マニュアルや紋切り型の台詞ではなく、

「ご連絡下さり助かりました。有難うございます」という言葉が自然と口を突いたんです。



その言葉付きが何よりも的を射ていたし、

自らの核心を突いていた。

瞬間的に溢れた気持ちがそのまま言葉に溢れたような、そんなイメージになるでしょうか。


そうしたら、最初は恐らく申し訳なさや引け目から尾を引いていたのであろう電話口の少し角張った声色も、
緊張の糸が解けたように和らいだ気がしたんですよね。





自慢ではありませんし決して褒められた話でもないのですが、私もしょっちゅうミスはするので、


そうした時にフォローして下さる方の存在って物凄く大きいですし、
心を全面的に委ねてしまいたくなるくらい安心してしまうんですよね。


だから、お相手の些細や綻びや躓きも、

不安も恐怖も「申し訳ない」というお気持ちも、


盤上の石を返すみたいに、たちまち優しい気持ちや喜びや、穏やかさへ転じてしまう【布石】にする事が出来たなら。


その転機となる切っ掛けになる事が出来たなら。


その中の一つになれたなら。





図々しい話ではありますが、そんな事を自分は思ったりした訳です。



これは飽くまでも理想論ではありますが、

その理想という【根差す場所】を持つ事で、

【目標】という値を示す事で、


人は【経緯】や【工程】や【結果】という「自分から見える感受や感想」を現実に下ろすが出来るのだとも思うから。


目指したい結果や形がなかったら、


きっと喜ぶ事も落ち込む事も出来ないから。






きっと不慣れな頃であったなら、

自分ももっと緊張の糸が張っていたのだと思うのです。


そのビシビシに張り詰めた糸でぶつかったり押したり
擦れたりして、

漸くたわんで【余剰】を確保した糸が、「今」なのだとも思います。


糸に載せた気持ちの分だけ、弛緩と収縮を繰り返したその数だけ、


誰かを受け入れる器の【間口】の広さとなってくれる。
許容範囲というパーソナルスペースを押し開く余地とも伸びしろともなってくれている。




それでももし、重責や衝撃から糸が千切れたとしても、それはまた次のご縁に結び合わせる事が出来るという事。


第一、一生に一度の人生なのですから、

【結び目】くらい欲張って生きていたいじゃないですか。




猶予や優しさを育てるのは、これまでの経験や環境といった「自らの体験」を元手に育まれるものであると同時に、
時には知識や雑学や情報が、行き止まりの壁に活路を開く糸口となってくれる事もある。



初めての事って常に緊張して張り詰めて、疲弊し切ってしまう程に心が過敏にもなるものですが、


だからこそ感情や情報に鋭敏に反応出来るんですよね。






慣れていたら、

たわみ切っていたとしたら、


流動や変化にもきっと鈍くなってしまうから。





つまり不慣れや不得手って、

自分の優しさや知識を刺激し、そうしてこの先の誰かに穏やかな瞬間をプレゼントする前章であり一種のフラグでもあるんですよね。
  


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