キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

自意識の預かり知らぬところで勝手に動いて切り開いて、 「遊んで来てくれる」のが【感情】というものでもあるんです。

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この無人販売の荷車、可愛くないですか?

 

フォルムといい、サイズ感といい、日除けとしてすだれが掛けられている姿といい、

空の青さと相まって、とても夏らしい雰囲気を感じるんですよね。

 

お会計用に置かれた木箱と三角型の屋根がまた、凄くレトロで素敵です。

 

 

 

 

 

こちらは休日のウォーキングルートでいつも通っている道なのですが

 

 

私が気付かなかったのか、そもそも置かれてなかったのか、

 

昨日や先週はこの荷車の存在にまったく気を留める事が無かったんですよ。

完全素通り。掠りもしない。

 

 

今日たまたま目が留まって、

「何だこれめっちゃ可愛いな」と思って写真に収めた訳ですが。

 

 

また別の天気、違う時間帯、異なる心の状態だったなら、

こんな風に写真を撮る事も無かったかも知れません。

 

 

 

 

 

 

かの有名な映画、【耳をすませば】の劇中に私の一等好きな台詞がありまして、

 

物語の中盤で主人公「雫」が人形のバロンを見詰めながら「今日はなんだか、とても悲しそう」と呟いているシーンがあるんです。

 

 

あのカットって私には、雫がバロンに対して感じた印象と言うよりも、

 

バロンを介して滲み出された雫の心象を表しているように見えるんですよね。

雫が自身へ向ける嫌悪や悔しさや葛藤が、

そのままバロンへの見方として投影されているんです。

 

だからきっと、雫はバロンを介して自分を見ていた。

 

 

飽くまで個人の主観ですが、

私にとってはそんな行間が垣間見える、とても情緒的で繊細で、趣のあるシーンなんです。

 

 

 

 

 

私が今日撮った荷車も、

きっとそれと同じなのだと思います。

 

自分の心が、荷車を「そう」捉えさせた。

 

目に見える景色も花も

人の動きも笑い声も

 

そこから受ける心象って、そのまま自分の心の状態を映し出しているものなんです。

 

 

 

今日は荷車の他にも、

ご近所さんの軒先を眺めながら、「将来持ち家を買う時は、絶対サンルームを付けたいな」とか思ったり。

(だって室内に干していながら日光で洗濯物を乾かす事が出来るんですよ。

強風で飛ばされる事も無ければ虫さんがくっ付く心配も無いし、

ワンちゃんや猫ちゃんの日向ぼっこ部屋にもなれるって最高じゃないですか?)

 

 

 

はたまた、公園の脇を流れる川を見て、

こんこんと流れる潤沢な水に自分の心まで癒されたり。

 

 

 

目に留まるもの。感じられるものって、

きっと【その時の自分に必要だから】入って来ているのだし、心に留まるのだとも思います。

 

 

 

【必要なもの】は必ず自分に入って来る。

と言うか、勝手に自分で掴んでしまう。

 

気になってしまうし考えてしまう。

目に止まってもしまうし、

自分の意志とは関係無く心が受動してしまうものなんです。

 

 

 

 

だから「やろう」としなくていいし

別に「見よう」ともしなくていい。

心を奮い立たせてまで「探そう」としなくていいんですよ。

 

 

 

だって、嫌でも眼は目の前の物を見てくれるし耳は音を拾ってくれるし心は反応してしまうし。

 

そもそも感情なんて「動かそう」と思って意識的に動かして行けるものでは無くて、

寧ろ自分が管理し切れないものだからこそ、

自分の考えが及ばない感覚や気持ちにだって行き着く事が出来るんです。

 

 

自分の意識下にありながら、

自分の意識のコントロールには収まらない。

 

自意識の預かり知らぬところで勝手に動いて切り開いて、「遊んで来てくれる」のが【感情】というものでもあるんです。

 

 

 

 

結果と同じで、【思考】なんて後から着いて来てくれるものなのだと思います。

 

その思考の為の材料として、

情報を仕入れる【玄関口】として、

視覚や嗅覚や触覚や、味覚や聴覚はあるのだとも思います。

 

 

先行して「やろう」、「探そう」、「どうしよう」と頭を気構えていたり思考を固めていると、

自分主体の意識に入ってしまって、折角仕入れた筈の情報を脳が素通りしてしまうんですよね。

 

 

心配事でそわそわしたり考え事をしているあまり、人との会話が疎かになってしまうのと同じで、

見えているのに見えていない。聞こえているのに聞こえていない。

 

心が取り留められなくなるんです。

 

 

 

勿論、既に自分の中で思考の材料や方向といった【組み上がるもの】や【煮詰めるもの】が出来ていて、

それ故の意識の集中なり没入ならば、また話の筋も変わって来るのですが。

 

 

 

 

課題の解決や突破口を開く最初の基盤として、

まずは「自分で考える」という癖付けないし【習慣】は必ず必要です。

何故なら、始めから外部の情報に頼っていては、自分の【軸】が無くなるから。

 

 

だから、まずは自分で思考する。

自分を置く。

 

 

それで腑に落とせるものが掴まれないなら、

一度「考える」という緊張状態を解いてあげる。

 

 

それが「見る」や「聞く」、「匂い」を受け取るという事で、【考えない】という事です。

【何もしない】という事なんです。

 

「やろう」としなくていいし

「答えを見付けよう」とこちらから信号を働かせようとしなくて良い。

 

ただ、「こういう事が知りたいな」、「この事に対するヒントが欲しいな」等といった【何となくの展望】を一度イメージしたのなら、

自分に確認を取ったなら、

 

それ以上はもう、

こちらからは何も考えないんです。

自発的に生み出そうとしなくていい。

 

 

必要な情報は勝手に目が拾ってくれて、無意識に耳が聞き耳を立ててくれるものだから。

 

 

心の根底が欲しがっている情報なら

向こうから勝手に飛び込んで来てくれるものだから。

 

 

 

だから向こうからの情報が飛び込み易くする為に、思考の展開を辞めるんです。

 

五感という窓口を働き易くする為に、

そして外からの情報に素直に反応し易くする為に。

 

 

 

 

 

「何も考えない」とか「何もしなくていい」とか、

根拠の無い言葉って不安ですよね。

 

 

そうは言ってもやらずには居られないし

不安にならずには居られない。

何かせずには居られないし

動かずには居られないんです。

 

 

 

でもこれは、自分が実際に実感した実体験を基にして書いているものでもありまして、(基本的にはどの記事もそうなのですが)

確固とした【自信】を込めて書いている言葉でもあります。

だから勿論、全く根拠がない訳では無いのですよ。

 

 

 

 

 

言葉に行き詰まった時

思考が壁に当たった時

私の場合はいったんその思考から離れるんです。

 

意識を解放してあげる。

 

 

 

そうすると、勝手に向こうから考えや言葉や打開のヒントがストンと降りて来てくれるんです。

腑に落として来てくれる。

 

 

それはものの数秒で入って来る事もあれば、

ひと月以上掛かる事もザラにあります。

 

 

 

でもその間の自分はと言うと、

「必要な情報なら必ずベストなタイミングで入って来る。

【今】はその為の必要な時期なのだから何も焦る事は無い」

 

「その瞬間の為に必要な【今】なのだから

自分は今見れるものを見て行くだけだし受け取るだけ」

 

といった「捉え方」を常に思考のベースとして敷くようにしているんです。

 

 

 

勿論、目茶苦茶しんどくもなるし焦るし不安にもなるし、

見通し立たなくて完全に心が閉じる事もありますが、

 

そういった考えに陥る事も、当に予定の内なんです。既に「ゴール」までの範疇に入っているんです。

 

 

 

 

だから落ち込む時は正直に落ち込みますし、

何もしたくないと感じたら、本当に何もしないんです。

 

 

「不安で良いし辛くていい。

【こうなれる】なんて信じられなくてもいいし

自棄になる事があってもいい。

自分を嫌になってもいい。

良かれ悪かれ、【今】はずっと続くものでは無いのだから、

それなら今居る自分を味わいたい」

 

 

 

どうせ【なる】のだから。

 

その過程の一つとして【今】があるのだと考えたら、

苦しんでいる今この時って、

 

漫画や小説で言う所の一番読み応えがあるシーンに当たるのだと思うんですよね。

 

 

最も盛り上がる為の【前置き】であり

跳ね上がる為に大きく沈み込む【踏み込み】でもあり

起承転結で言うところの【転】でもあって

そこに行き着く為の【伏線】なんです。

 

 

 

 

これらは一見、楽観的でずさんで投げやりな言葉として聞こえてしまうかも知れませんが、

 

こんなにも強気で言えるのは、

自分もまた、身を以て感じた実際の経験があるからなんです。

 

そしてそれを厚手がましくもこうして共有しているのは、

その経験を一度では無く、何度も体験してるからです。

 

【考える事を辞める】って、

 

自身が無意識に持つ「固執」や「固定観念」といった潜入感から、

 

思考の首輪を解いてあげるという事でもあるんですよ。

 

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