キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

詰まるところ、「ありえない」や「絶対」という表現は個々の感情ないし、 人、一人一人がこれまで築いて来た環境下や世界線で育てられたものであって、 それは極端な言い方をすれば固定観念とも取れる価値観です

 

最近、意識的に極力避けている言葉があります。

 

 

「おかしいに決まっている」

「絶対間違っている」

 

こう言った類の【否定的】な要素を持つ台詞と言うのは、

 

例えそこに如何なる愛情が込められていても盤上の優しさとは裏腹に、

 

 

相手の心へ加減も無く、

えも言えぬ程の踏み跡を残す事があります。

 

 

 

それがどれだけその人を擁護する言葉であったとしても、

思い遣りばかりを選び抜いた台詞であったのだとしても。

 

そういった言葉とは時に

発言者の意思とは凡そ関係無く

 

聞き手側の柔い部分を容易に捩じり潰す事があります。

 

 

特に、こと親族に関連した内容に於いては。

 

 

 

そこにどれ程の優しさを内包していたとしても

発言者本人の「想像するに難くない範疇」を軽く飛び越え、

 

枠組みの縁をいとも容易く突き破ります。

 

あらぬ形であらぬ方向へ。

受け手の心の予期せぬ場所へと落ちる事は往々にしてあるんです。

 

 

 

そしてそれは、発信者本人の意図とは遠くかけ離れ、

 

その人自身の人格や人生その物を容赦無くキズモノにします。

 

 

 

吐き出し難く濁しようも無い、

胸から喉元に掛けてのっしりと尾を引く鉛の様な薄ら重さと、

爪で引っ掻いた後のミミズ腫れの様な熱を以て。

 

受け取る相手の心へしめやかに、

そして確実にヒリ付く痛みを残すのです。

 

 

 

母体から産まれ落ちて今日まで、

 

人には人の数だけの人生があります。

 

 

自分に取っての「日常」が、

相手に取っては絵空事の様に想像も付かない「非日常」である事だってあります。

 

勿論、その逆もまた然り。

 

 

 

例えば産まれたばかりの赤ちゃんに取っては、

母親が自分に取っての【世界】です。

 

仮にその母親がどれだけ暴力的で冷血で、

我が子を虐げる卑劣な存在であったとしても。

 

何も知らない幼子には、その母親こそが絶対的な世界です。

 

 

 

他に学び様も無く知り様も無い、

自分の世界を占める唯一無二の頼るべき存在であり、

 

たった一人以外の何者でもない愛情の人なんです。

 

 

 

血の繋がりとは如何ともし難く厄介な物で、

 

いくら自分の口からなら母親を卑下する様な言葉が口を突いて出たとしても、

軽口を叩く事が出来たとしても、

 

 

同じ言葉を他者から言われた瞬間に

それまでの言動とは打って変わって怒りを覚えるものなんです。

 

 

 

自分の母親を、

自分の世界を、

自分を形作った環境の一つであり自分の一部を、

 

自分と言う存在を丸々ひっくるめた、

紛う事無き自分の片割れを馬鹿にされた瞬間、

 

人格否定された途端、

 

 

地の底を這う様な憤りを覚えるものなんです。

 

 

物心が付くに従い、

その幼い子供の世界には父親や姉弟、

祖父母などが加わり自分の中の【学ぶべき社会】が増えて行きます。

 

幼稚園や小学校、中学校、高校や大学、そして社会人へと。

 

 

一つずつ歳を重ねる毎に、

自分にとっての社会であり規律は拡充されていきます。

 

自分を型成す正義であり常識であり、

価値観なり世界感は少しずつ浸透する様に押し広げられて行きます。

 

 

選べる選択の幅は広がり、可能性は増え続けます。

 

 

 

そうして引き出しは多くなって行くんです。

 

 

そうやってアイデンティティーは培われて行くんです。

 

 

自分に通ずる「普通」とは、

自分を導く分別の判断材料とは、

それまで自分を取り囲み、自分を擁護し、「自分を生み」、「自分を育て」て来た生活環境に大きく比例します。

 

もしも仮に、たったの今まで自分が受け入れて来た物が、

それしか無かった物が、

それ以外に知る術も無かった物達が、

 

周りに取っての「非常識」であったとしたら?

 

 

今日まで自分の重ねて来た一日が、

24時間が、

1,440分が、

86,400秒が。

 

その重み達が、「間違っている」という毅然たる意思を持った、

たった一言によってひっくり返されてしまったとしたら?

 

 

 

盆から一滴残らず溢れ落ちてしまったとしたら?

 

自分は「不幸」だったのだと判を押された様な

そう思わされずには居られない様な

 

そんな決定的な一手を打たれてしまったのだとしたら?

 

 

「可哀想」だったのだとレッテルを貼られた様な

そう塗り変えされずには居られない様な

 

それまでの人生を盤上ごと覆されてしまう程、

 

非の打ち所も無い絶対的な判決を下されてしまったのだとしたら?

 

 

 

 

これはあくまで一個人の経験下に於ける解釈なので一概に言い切れる訳ではありまんが、

敢えてそれで物を語るのだとしたら、

 

その言葉の先にあるものは、

 

 

「絶望」です。

 

 

「失望」とも呼ぶのかも知れません。

 

 

 

何故なら、どれ程過酷で劣悪な環境下に生き永らえていたとしても、

傍から見れば卑しく目も当てられない程の現実がそこにあったとしても、

 

その人に取っては、その場所こそが紛れもようも無く、

 

 

自分の日常だったからです。

 

そこに生きるのは、どうしようも無く自分だったからです。

 

そこにあったのは、ある意味妥協で、

ある意味諦めだったのかも知れません。

 

それでも生臭く泥臭く、

硝煙立ち込める瓦礫の中から、

 

手を血みどろに濡らしながら何とか掘り出した「幸せ」で。

 

 

自分を慰め続けて来た「希望の光」で。

 

 

 

そんな僅かな救いや拠り所だった感情達を頼りにして、縋り付いて。

 

今にも身を投げそうな体も心も騙し励まし生きて来て。

 

そうやって「今日」を積み上げて来たのが「今」の自分だからです。

 

 

辛い筈だった自分の感情に上から蓋を押し付けて、

自分を癒して誤魔化して、

 

それでも大切だったと、

それでも大切にしたかったと、

 

「だからそういうもの」なのだと。

 

 

 

そうやって自分の心に言い聞かせて来た自分が居るから。

 

今にもくずおれてしまいそうなギリギリの感情の中で藁を掴んで来た自分がそこに居るから。

追い詰められながら耐えて来た自分は確かにそこに居た筈だから。

 

 

そうでなければ、

ひとたび堰を切った濁流の業火に身を任せてしまいそうだったから。

流れてしまいそうで、

壊れてしまいそうだったから。

 

 

そうやって戦って来た、たった一人の愛すべき自分がそこに居たから。

それがすべてだったから。

 

 

「それは間違っている」と

砥石で研いだ刃物のようにすっぱりと切り伏せられた瞬間

言い切られてしまった途端

 

そこに見出していた一握りのちゃちな藁ですら、

そこで戦って来た、腐食した支柱ほどの心許ない自分ですらも、

 

その存在の何もかもを断罪された様な気持ちにさせられずには居られないんです。

 

 

 

意味を失くし泡と消えた様な、

そんな無力感を感じずには居られないんです。

 

 

「じゃあ今までの人生は何だったのか」と

「そこで生きて来た自分にどんな意味があるのか」と

「今の自分は何なのか」と。

 

自分へ聞かずには居られない様な、

苛まれずには居られない様な、

打ちひしがれずには居られない様な。

 

 

 

そうした永遠と廻る感情のループに自分という個体まで呑まれて行く様な、

身体ごと侵されて行く様な、

 

そんな心持ちにさせられるのです。

 

 

この世の正義も価値観も、

ありとあらゆる常識や俗習は、

平たく言えば世間一般の多数決で決められます。

 

 

 

詰まるところ、「ありえない」や「絶対」という表現は個々の感情ないし、

人、一人一人がこれまで築いて来た環境下や世界線で育てられたものであって、

 

それは極端な言い方をすれば固定観念とも取れる価値観です。

 

 

 

そしてそれを「総意」として提示出来る程の圧倒的意見があるから

更にそれは国民アンケートの大多数に上ってしまうものだから

円グラフの7割を占めるものだから。

 

それらが総じて世間一般の「常識的な考え」として根を張るのです。

 

 

「絶対違う」

「そんなの間違っている」

 

そう言った類の言葉は時に

それ迄そこで生きて来た、その人達の人生その物を完膚無きまでに打ち壊す事もあるんです。

 

例えそれがどうしよう無く正しい言葉であったとしても。

 

人にあるべきモラルであったとしても。

 

愛情ばかりの言葉であったとしても。

慮り慈しんだ台詞であったとしても。

相手の為を想った発言であったとしても。

 

「そんなつもりは無かった」のだとしても。

 

正しさが人を殺す事もあると、

優しさが人格を否定する事もあるのだと、

 

 

世界総人口70億とも80億とも言われる全人類の中で、

そんな有象無象の一部として、

 

 

 

「私」という世界線で生きて来た一個人は、

 

 

おこがましくもそんな事を考えずには居られないんです。

 

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