キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

物悲しいドラマも感傷的な気持ちになれる曲も好きだけど、自分に限ってはハッピーエンドが良い

 

最近「気持ちを抑える」とか

「気持ちを隠す」とか

「気持ちを押し殺す」とか

 

その類の言葉が自分の中で噛み合わなくなって来ている。

 

 

腑に落ちないと言うか、ボタンを掛け違えた様な。

 

或いは、歯車がズレて空回りする心持ちを覚えている。

 

 

落とし込む事が出来ない。

自分の型に嵌ってくれない。

 

パズルのピースみたいな形をした文字の輪郭が、

自分の溝に入ってくれない。

 

 

魚の小骨でもつっかえた様なむずかりを覚える。

 

浸透しない。弾かれてしまう。

頷けなくて飲み込めない。

 

 

 

今、こうして文字に起こしながらその理由を探してる。

ひたすら口の中で転がしている。

 

角度を探してる。

 

 

 

深みに入る。

 

掻い潜る。

 

掻き分けて没入する。

 

 

なだらかになってくれない。

滑らかになってくれない。

 

深層の中心近くにある、突起の様なコブが気になって仕方ない。

どうしても足を引っ掛けてしまう。

見過ごせない。

 

ここ最近ずっとそんな違和感と一緒に居る。

持って行かれそうになる。

 

 

 

体の真ん中から伸びて来る手にうっかり引き込まれそうになる。

片足を突っ込んでしまいそうになる。

 

浸りそうになってしまうけれど、

 

ともすれば、軋めく二対の歯車に挟まれて対極の方向へ引き千切られる様な苦々しい不和にも同時に苛まれる。

 

 

 

「気持ち」って何だ。

 

 

何で想う気持ちを抑えているんだろう。

 

 

求めてしまうからなのか。

期待をしてしまうからなのか。

 

望んでしまうからなのか。

欲しい答えがあるからなのか。

 

 

 

答え合わせがしたいのか。 

「同じであって欲しい」と願っているからなのか。

 

そうして安心したいのか。

 

 

 

こちらの望む答えを、自ずと願ってしまっているのか。

 

それが得られなかった時に、

 

自分の期待に沿えるもので無かった時に、

 

リンクしなかった時に、

擦れ違った時に、

 

 

 

どうしようも無く胸が軋んでしまうのか。

だから苦しいのか。

息が出来なくなるのか。

 

だから、気持ちを抑えるのか。

 

 

じゃあ「気持ちを抑える」とは、

つまり防衛本能の表れなのか。

 

 

自分の心を守る為に、

深手を負わない為に、

かすり傷で終われる為に、

 

水面下を臨むのか。

 

自分の呼吸を奪うのか。

 

 

 

だから、そんなに心がボロボロなのか。

ずぶ濡れの感情を自らの腕で掻き抱いているのか。

 

 

 

そうして大切な人の顔を見る事すら辛くなっていってしまうのか。

会う事が怖くなってしまうのか。

声に痛みを覚えるのか。

 

 

そうした心の歪みに、いつか相手が気付いてしまうのを恐れているのか。

 

 

気付いて引っ掛かりを覚えて悩みの種を与えてしまう事が怖いのか。

 

その顔に、影を落としてしまいそうだから。

自分の中の現実がその人にとっての現実にも成り得てしまう可能性に怯えているのか。

 

 

求めたくて。

求められる人でありたくて。

 

必要とされたくて。

 

 

 

結局必要とされたいのは誰よりも自分なのだと言う事実を思い知ってしまうから。

 

可能性ばかりチラつくから。

 

期待のその先に在る願いに手を伸ばしてしまいそうになるのか。

甘やかな和らぎを覚える程に

そんな一瞬の過ぎりを払い落としてしまうのか。

 

 

 

それでも想わずには居られないのか。

 

そうした葛藤が只ひたすらに弧を画いて

グルグルと円を画いて

 

ネジを回すように

螺旋を巡るように

 

 

深みへと落ち入るのか。

 

思い直そうとして

持ち直そうとして

「理性の頭」と「本能の心」のちぐはぐさに挟まれて身動きが取れなくなってしまうのか。

 

挟まれて深みに嵌って堂々巡りで。

 

 

知って欲しくて見られたくなくて、

燻る想いに焦がれて灼かれて。

 

受け入れて欲しくて受け止めて欲しくて、

焼け付く冷たさに泣いているのか。

 

 

見逃す事が出来ないから。

無関心にも無頓着でも居られないから。

 

 

目で追ってしまうから。

 

追い掛けずには居られないから。

引き伸ばしたゴムみたいに

 

遠去かれば遠去かる程

後退れば後退る程

 

 

反動する引き戻しに抵抗する覚悟が無くて。その力が手離し難くて。

抗い切れない引力に気付いてしまうのか。

 

 

知って欲しくて

 

こんな自分を見付けて欲しくて

 

 

遠慮なんて望んでなくて

礼儀も礼節も剥ぎ取って

 

その一線を踏み荒らして欲しくて

 

詰め寄って欲しくて

追い込んで欲しくて

 

 

 

そんな事言える筈も無くて

我儘になりたくなくて

 

水面上の小春の様な穏やかさがその人からみえる現実であって欲しくて。

 

それでも時には冷静では居られなくて。

分別がつかなくて。

 

朦朧とした感覚だけが浮き足立って

 

熱病の様に判然としなくて。

 

 

それは一瞬の衝動で

 

「魔が差した」と言えばそれまでで。

 

 

 

だけど確かにそれは自分の意思で

自分の願いで

自分の望みで

一縷の期待に変わりなくて。

 

 

透明であろうとすればあろうとする程に、

無色であろうとすればする程に

 

その中にある不透明さが浮き彫りになってしまうから。

 

 

 

丸くあろうとすればする程に

 

柔らかくあろうとすればする程に

 

 

 

まるで比例する様に

純度を増した想いの鋭さが際立ってしまうから。

 

そのたった一度の爪先が相手の心を引っ掻いてしまう事を心のどこかで望んでいて、

更にその地平線の向こう側で「止めてくれ」と髪を振り乱して叫んでる。

 

 

 

優しくありたいと願う程に

鷹揚でありたいと望む程に

 

炙り出される様な秒速の無情さに

駆り出される様な刹那の非情さに

 

醜さばかりが上澄みする。

 

 

「良い人」であろうとすればする程に、後戻りが出来なくなる。

「理解ある人間」であろうとする程に、

後ろ暗さばかりが色濃くなる。

 

 

 

それでも「そうでありたい」のは、

 

だって大切な人だから。

 

 

 

傷を付けたくなくて、

綺麗な自分を見て欲しいから。

そして大切な人だからこそ、

 

沢山の自分を見て欲しい。

 

 

色んな角度で、あらゆる表情の自分を見付けて欲しい。

 

 

それで良いんだと言葉にして欲しい。

それでも傍に居る選択肢を選んで欲しい。

 

 

 

だから少しずつ、歩み寄る様に言葉を選ぶ。

ほんの僅かに、視線の上に感情を乗せる。

 

 

たった1ミリでも言葉の節を、

目の色の深さを、

その人に掠め取って欲しいから。

 

 

そうして軽微に変化する相手との距離に

慎重に置かれる言葉選びに

 

真摯に緩められる視線の意図に

心を解かれる思いをする。

 

 

 

たった一度だけ、許された気持ちにさせられる。

 

翳した手の温かさで、撫でる様に瞼を閉じる。

 

きっとその時、限りなく不純物の抜き取られた優しさが、果てしなく心を埋めていく。

 

 

自分を優しくしてくれた時の相手の姿に思いを馳せれば、

その時は決まって目尻が綻んでいて

手の皺をなぞる様な言葉付きで

 

そのどれもが絶対温度の浸透圧を持っていた事に気が付いて。

 

 

 

穏やかな水面の下で、

積もり始めた毒の層を中和してしまうのは、

いつだってその人の笑顔だった。

 

 

少しずつ核心に近付いて来た気がする。

 

慎重に舌の上で転がす作業は止めない。

感覚の渦に手を埋める。

形と感触を確かめる。

 

 

考える行為に背を向けてはいけない。

 

深みへ潜り続けて、手探りを繰り返す。探し続ける。

感覚の糸を辿って手繰り寄せ、掘り起こす。

 

 

 

道化でも無ければ怪物でも無い。

 

 

層を成した毒気を中和して自分を只の人間に戻してくれるのは、

地層の中心部へ帰してくれるのは、

活路を開いてくれるのは、

 

 

自分自身を道化にも怪物にもしてしまう、

その人本人だった。

 

 

 

自分を優しいひとにしてくれるのは、

只の笑顔だった。

 

屈託無く、こちらの意図した答え合わせで屈折させる事も無い、只の笑顔。

 

それは時に言葉以上の力があり、

どの神社の御守りよりも強力で、

目に見える世界を遥か平和にしてくれる。

 

 

 

 

そこでふと、随分前のツイートで呟いたとある一文を振り返る。

 

---私にとっての"愛"とは幸せで、

そして幸せとは、変わらず大切な人の笑顔を願い続けられる事だと---

 

 

 

その時の考えも、その考えの内に秘めた想いも、

何一つ変わっていない。

 

核は決して不変的な物では無く、

 

 

その周囲を取り巻く意思も覚悟も価値観も、

点も辺も角も線も常に流動する物だと考えている。

 

移り変わり循環するもの。

 

 

しかしそれでも少なくとも

今は多分これが自分を自分として確立し

 

自分を自分たらしめる唯一無二の核なんだと信じてる。

 

 

 

自分を只の人間にしてくれて

心の安寧と平和をもたらしてくれるたった一つの切り札だと信じてる。

 

そうである事を貫きたい。

その貫きを誇りとしたい。

 

これは飽くまで自分個人の見解に過ぎないけれど、

 

 

 

自分が幸せになる為には笑顔がなきゃ駄目で、

何の意図も思惑も無く、

色眼鏡を通さない只の笑顔が必要不可欠なんだと思う。

 

その為に気持ちを抑える訳にはいかない。

 

押し殺す訳にはいかない。

隠す訳にもいかない。

 

 

 

抑えてしまったら伝える事が出来なくなってしまう。

 

隠してしまったら分からなくなってしまう。

 

押し殺してしまったら不幸になってしまう。

 

 

 

好意は伝えなきゃいけない。

気持ちは渡さなきゃいけない。

想いは届けなきゃいけない。

 

 

物悲しいドラマも感傷的な気持ちになれる曲も好きだけど、

自分に限ってはハッピーエンドが良い。

 

 

 

 

その為には、やっぱり大切な人には笑っていて貰わなければ始まらない。

 

その努力を辞めたら幸せになれなくなってしまう。

こちらが笑えなくなってしまう。

 

 

 

何よりも優先したいのは自分の幸せで

自分の幸せの為には大切な人の笑顔が必要で

 

笑って貰う為には自分の笑顔が必要で、

それは自惚れでも何でもなくて只の単純明快な真実で。

 

 

笑ってくれる人がいるから人は笑顔になれる訳で。

だから相手に幸せになって貰う為には、

 

自分も幸せでなくちゃいけなくて。

 

 

 

だから幸せを感じる為には気持ちを抑えちゃいけない。

誰かを想える時間を

何よりも心を豊かにしてくれる時間を

 

そんな時間がある事を教えてくれた誰かへの想いを否定しちゃいけない。

 

 

 

目の前に居る誰かの笑顔を目にした時、

笑い掛けてくれた時、

その瞬間に覚える感情って、

 

もっと分かり易くて単純な筈。

 

 

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