キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

【子供を育てる】って、 「そういう事」でもあるのではないかと思うんです

 

【畜舎の子豚や子牛が何者かに盗まれた】

というニュースを観て、姪が号泣していたそうです。

 

普段はお転婆でおしゃまで生意気なところもありますが、

 

初めての【社会】である幼稚園で早くも友達関係に悩んでしまえるくらいの感受性を持った子で、

 

誰かの為に泣ける「心の柔さ」を持った優しい子です。

 

 

そうやって泣けるのは誰でも出来る事じゃ無いんです。

 

少なくとも私が同じ位の歳の頃は、まだそんな感性持ってなかった。

 

 

 

感受性が強いのは、それだけ相手の心を測って感じて受け止めて、

その思いを否定したり

自分の中で打ち切らないで、

 

そこに存在する事を受け入れてあげているという事なんです。

 

その分心は重くなるし、この先きっと人より多く【病む】だろうけど、

それは誰よりも近く、苦しみを「諦めない」強さを持った子だから見える生き辛さだと思うんです。

 

その子の気持ちを肯定して享受して【許してあげる事】が大人の務めでもあるんだよなと、

 

私も常々反省しながら思う所がある訳です。

 

 

だってきっと、皆そうした経験の先で大人になっている筈だから。

 

辛いなら辛い。悲しいなら悲しいという【感情の我が儘】を通して今ここに居る筈だから。

 

 

 

同じ時代を生きた記憶があるのなら、

そしてその頃の自分の周りに居てくれる大人が居たのなら、

 

 

今度はその【大人】は、自分が担う番なんです。

 

 

意見なんてしなくて良いし助言だってしなくて良い。

自分の苦労話なんて聞きたくない。

 

そんなの要らないから、

ただ、【ぶつけられる】存在で在って欲しい。

【ぶつけるもの】がある場所に、その子を居させてあげて欲しい。

 

届かない場所には行かないで欲しい。

その子を独りにしないで欲しい。

 

 

子供の頃の自分が親に対して大人に対して、

「そうでいて欲しかった」のと同じように。

 

今のあの子もこれからのあの子も、【許してあげられる】存在が居なければ、

 

いつか思春期を迎えた時に、

 

あの子があの子自身を許せなくなる。

 

 

自分を否定して、「自分が嫌い」と言う日が必ず来る。

 

だから子供が我が儘になれる場所って絶対必要なんです。

それが【許される】居場所として、親は居るのだとも思うんです。

 

そして子育てに於ける親の不安や心労や、

心の重みを肯定して一緒に分かつ場所に居られるのが、

親や兄弟や隣人や、会社の同僚なり上司でもあって、友達という存在でもあるんです。

 

我が子を受け止めるのが親の務めであるならば、

親達の心を受け止められる場所である事は、社会が担える務めです。

 

「子を産んだ事も無い人間が一体どこから目線で言っているのか」と自分でもほとほと感じますが、

【子供を育てる】って、

「そういう事」でもあるのではないかと思うんです。

 

 

これはあくまで理想論だと言われるのかも分かりませんが、

 

ただ、皆が皆そういう【心持ち】で居てくれたのなら、

人ひとりひとりから見える世界も、

それぞれの視界からしか見えない景色も情景も心の紐も、

 

今よりほんの少しだけ、

緩やかで幸せに映ってくれるのでは無いかと思うんですけどね。

 

 

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