関東大震災も明暦の大火も、
自分は【黙祷】をしたことが無い。
黙する事は出来たとしても「悼む」ところまでは行かれない。
この境界線はどこなのだろうと昼夜を舎かず時々考えることがある。
聞く人が聞けば一笑に付す話なのかも知れないけれど、
割かし私は本気でそれを思っている。
戦争も災禍も悼むことが出来るのは、
多分その時分に近しく在れた人々だけ。
心を分け合う時代の距離に生きることが出来た人達だけ。
だから今日という日を【悼む】ことが出来るのは、
この100年を生きる私達にしか出来ないこと。
私達でなければ「馳せる」ことが出来ないこと。
関東大震災を生きた人が、
そしてその痛みを「知る」人々が、
99年後も祈りを捧げているように。
自分が死ぬまでの100年間。
私はきっとこの先も、「今日」という日に黙祷する。