キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

年齢を重ねる事は、誇り高さを重ねる事。

 

割と最近までは、

それこそほんの2ヶ月くらい前までは。

 

歳を取る事に後ろめたさがあったと言うか、

ネガティブなイメージをずっと持っていたんです。

 

 

歳は取りたくないし、老いて行きたくもない、と。

 

でもそれって、決して【良いメッセージ】では無かったんですよね。

歳を取るのは嫌な事だと

老いて行くのは悲しい事だと

 

そんな後ろ向きなメッセージを、絶えず若者へ向けて送り続けていたんですから。

 

そうしたら、そんな一種の【刷り込み】を受けた今を生きる若者達が、いつか私と同じ年齢になった時、

私と同じ様な気持ちを抱える未来を迎える事になるかも知れない。

 

最近ふと、そんな事を考えるようになりました。

 

 

「よくありがち」な発言や、

「世間一般的」な会話の中で何気なく発する「後ろ向き」な発言が、

 

聞く人の潜在意識に種を撒いて根を張らせ、

いつかその人の人生そのものに大きな波紋を広げる日がやって来るかも知れないと。

 

 

自分の年齢に引け目を感じ、

歳を重ねる毎に負い目を感じ、

今を嘆き若者をひがみ、

老いを嘆いて今の自分を卑下する大人として成熟する手助けをしてしまっているのかも知れないと。

 

肩身を狭くして生きづらくして、

意識的にも無意識的にも、自分の価値に自ら「疵」を付けてしまうような、

 

 

そんな幸先暗い未来のレールを、

そもそも今居る私達大人が、先導して敷いてしまっているのかも知れないと。

 

ある種の呵責の様な一抹の翳りを、そこはかとなく自らの心に落とすようになりました。

 

 

 

でも、それと同時に気付いた事もあったんです。

 

それは、自分が生きて来た人生の事。

ここまで歩んで来た日々の事。

出会いも別れも怒りも悔やみも、

喜びも悲しみも笑顔も涙も、

 

何一つとして無駄なものなんて無かった事。

 

これまで生きて来た道の一番先端に今の私は生きていて、

今ここで生きる私は、

これまでの私が歩み選んだ人生の総結集であると同時に、

積み重ねて来た経験の賜物であるという事に。

 

それと同時に、今の年齢を卑下する事は、

それまでの自分を卑下する事と同等の意味を持つのではないかと考えるようにもなりました。

 

 

重ねた歳を蔑み恥ずかしむという言動なり選択は、

【今】を積み重ねて来た【自分】という連なりを、

自らの手で否定する事に繋がるのではないのかと。

 

 

自分の価値を卑しめて、

潜在意識を汚す手引きを自らの意思で選び行ってしまっているのではないのかと。

 

 

そうして思考を続けた結果、

やはり私は間違いなく一つの確信を持ちました。

 

生きて来た年数を恥じる程、

自分は生半可な人生を送って来たつもりは微塵も無く、

自分の年齢を公言する事に後ろめたさを感じる程、

半端な経験を重ねて来た気も露ほどだって持ってはいない。

 

澱み無く揺らぎも無く、

その時確かに認識し、

自信を持って自分自身に言い聞かせる事が出来たんです。

伝える事が出来たんです。

 

 

自分が生きて来た年数は【気付き】を得て来た年数であり、

自分が重ねて来た歳の数は、

積み上げて来た誇り高さの数なんです。

 

生きる事を諦めずに今日まで生きた来た歳月は、

誉れ高くて気高くて、

 

恥じる事でも無ければ嘆く事でも無かったんです。

 

 

歳と取らせて頂くのは命の重みを知る事であり、

自分】を授かってから今日まで、

生かされ生き永らえさせて頂いて居るという、

何よりも尊く有難いものであるという事も。

 

私は今まで生きて来た人生の中で、

今までの人生の何もかもを集約した今の自分が誇りです。

 

 

10歳の時も15歳の時も、20歳の時も30歳の時の自分も、

いつの時代の自分も当時の数多の感情も、

そっくりその侭ひっくるめて、

その集大成の塊である自分自身が

今までのどの自分よりも大好きなのだと知ったんです。

 

 

だから最近の私は、

漸く自分の年齢を臆する事無く答えられるようになりました。

 

胸を張って誇りを持って、

自信を持って堂々と。

 

 

他でもない自分自身を、笑顔で伝える事が出来るようになったんです。

 

 

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