休日明けの仕事や勉強の時間って、
やる前は「面倒だなぁ」とか「やりたくないなぁ」といった憂鬱な気持ちが先行する事が圧倒的に多いのですが、
一度足を踏み込んでみると、
想像していた【不安】って実は無くて、
いざ始めてしまえば後は投じるだけだし身を置くだけ。
時間に乗るだけなんですよね。
教材も課題も方針も未来も、
実態が分からないから【不安】になるもので、
そこに行ってしまえば、
【不安】って自分が勝手に作り出していたものなんだって分かるんです。
現実は言う程怖くない。
だから必要な事は、今を見るだけ。
目の前に視線を送るだけ。
熱を注ぐだけなんです。
大人の「得」な所って、
自分の【意志】で勉強出来る様になる所だと思うんです。
十代の頃。特に【勉強が仕事】だった時代は、
「やらなきゃいけない」という義務的な牽引が前面に置かれていた感覚があったのですが、
大人になると自分が「やりたい」と自発した意思で動き出す面がより色濃くなるんです。
自分が必要な分を必要に応じて手に取って行く事が出来る様になる。
そしてそこには、外装や形だけじゃなく、
ずっしりとした中身が詰まっているんです。
知識の重みが確かにある。
そうした知識を求めた時に、
義務教育時代や高校、大学で育んだ地盤が力を発揮するんです。
求めるべくして求めるし、
活かされるべくして活かされる。
だから学生時代に費やした【勉強】の期間って、「それ自体」に価値があると言うよりも、
自分が本当に必要としたものに出会った時、
ちゃんと自分の手を伸ばして掴んで身にして行ける肥沃な土地を整える為の時間だったのかなと、今は思います。
だから学ぶ事が「楽しい!」と思えるし、
勉強の先に【目的意識】が待っているから継続する活力源にもなってくれる。
この先の【見たい未来】を掴む為に「今やるんだ」って鼓舞する事も出来るんです。
だから特に大人になってからの勉強の時間って、「やりたい」と思った時が学びのチャンスなんです。
折角大人になって、やりたい時にやりたい事が出来る歳になったのに、
やりたい事を「やらなきゃいけない事」に塗り替えてしまうのは勿体無いですもの。
自分の心を楽しませてあげる為にも、
たわわな実りを結んであげられるベストなタイミングで最大限の命をあげれば良いんです。
喜ばせれば良いんです。
学生時代の勉強期間も大人になってからの暇の時間も、
畑を育てる時間と同じなのだと思います。
水を注ぎ堆肥を投じ、土を返して石灰を撒く。
種を添えた時に芽吹ける様に、
ふくよかな土地で在れる様に。
エネルギーを注げる様に。
その為の土壌を肥やす休息時間、
準備期間みたいなものなんです。