キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

経験が【経験】となるのは経験をしたその時ではなく、 必要として引き出された時に初めて【経験】と成ってくれるんです

 

週末の仕事帰りは、よく遠回りしたり寄り道をして家路に着くのが常なのですが、

 

途中でどんなに迂回しても慣れない道に進んでも、

最後は必ず自分の家に着く訳です。

 

 

当たり前だと思われる事なのかも知れないけれど、

でもそれって、「そこへ行く」という意識があるから目指せるものだと思うんです。

 

その間にある【あらぬ方向へ舵を切る】のも、【道草に時間を置いて行く】のも、

【荷物が想定の量を超える】のも、

 

道半ばにある瞬間瞬間の出来事って、

一見無駄で無益に思える事ばかりなのかも分かりませんが、

 

 

目的地までの自分を「こしらえ続けてくれる」のは、そうした無意味に思える経験達なんです。

 

大切なのはきっと、【根拠の無い直感】と【小さな好奇心】。

 

 

 

そこに意味や理由を持とうとしなくて良いんです。

意味なんて後から着いて来るもので

後付けされてやって来るもの。

 

経験が【経験】となるのは経験をしたその時ではなく、

必要として引き出された時に初めて【経験】と成ってくれるんです。

 

だから【その時】の自分に理由なんて必要ない。

「廻りたい」から廻って「巡りたい」から巡るんです。

 

 

「寄り道したい」から寄り道するし、

行きたいから「行く」んです。

 

その中心にある【軸足】が変わらぬ方位を指しているなら、

意識も記憶も経験も、また変わらず「そこ」へ向かい続けてくれるんです。

 

 

【寄り道】や【手荷物】は時に筋肉痛なり疲労と成って痛くも生き辛くもなりますが、

やがて自分の【身】と成ります。

 

「行きたい」場所に行き着いた時、

そこに居る自分の姿を左右して観える景色を動かすのは、

 

 

そうして蛇行して湾曲して入り組んで来た、【好奇心】という名の戦利品の筈なんです。

 

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