普段自分達が歩行や運転、通勤や通学に使用している平らな道。
私自身も表現の一角で「平坦な道」という比喩を使った事がありますし、
今後も汎用するレトリックの一つだと思うのですが。
そもそも道って、
凸凹している事が元々の「平凡」なんですよね。
道が平たいのは舗装してくれる国や企業があったからで、
紛争や犯罪を「非凡」と呼ぶ事が出来るのは、
それが「平凡」である事を認めない人々が居てくれたから。
慣らし反芻し習慣化したものを「普通」と呼ぶとするのなら、
平坦って、
それ自体が地ならしをして来た【時代の跡】と言えるのかも分かりません。
道路の塗装に線路の施工、
資格の勉強や進級や、
引越しや就職や何かを「やる」と決めた時。
「道は凸凹」がそもそもの普通。
だから平坦さも平らに続くルーティンも、
それまでに努めて来た自分自身の尽力や、
それを支える事を【常】として来てくれた誰かの存在があったという印なのだと思うんです。