【愛】は真心、【恋】は下心。
10年前、とある人から教えられた言葉です。
漢字って本当に面白いと言うかよく出来ていて、
確かにこの二つの漢字を見ると、
【愛】は「心」が真ん中に、
【恋】は「心」が下に付いているんですよね。
そして【愛】とは、
見返りを求めないものだとも教えられました。
無償の愛。
これを実践するのは容易ではありません。
ひどく難しい事ですよね。
どんなに「あなたの為」だと、
「あの人を思って」と伝えたとしても、
行動したとしても、
その心底ではどこかで期待してしまうんです。
求めてしまうんです。
その人からの見返りを。
それは【物】や【お金】という形有るものなのかもしれないし、
【言葉】や【相手の心】という形無いものなのかもしれませんが、
いずれにせよ、同等の対価を求めてしまう。
報われたいと望んでしまうものなのだと思います。
また、これとは少し矛盾した話になるかもしれませんが、
【愛】と【憎しみ】は表裏一体です。
きっと初めは本当に何も求めていなかったんだと思うのです。
その人の笑顔が見たかっただけ。
喜んで欲しかっただけ。
ただ、傍に居られれば良かっただけだと。
だけど一方で、人間には【承認欲求】というものも存在します。
誰かに認められたい。
誰かに受け入れて欲しい、と。
それが時には友達に対してであったり、
家族に対してであったり、
そして好きな人に対するものであったりする。
だから、【愛】を認めて欲しいと願ってしまう。
【愛】を受け入れて欲しいと望んでしまう。
これは至極自然な事で、
当然な事で、
当たり前の事なのです。
自分ではどうしようもない事なんです。
抑えても抑え切れないものなんです。
だって心が求めてしまうんですから。
理性が心に追い付ける様であれば、
鬩ぎ合っていなければ、
それ程までに葛藤なんてしていない筈なんです。
しかし元来、その方達はお相手に対して、
本当に何も望んでいなかったのも事実です。
本当に何も要らなかった。必要としていなかった。
だから尚更言えないんです。
今更こんな事口にしたら、きっと元には戻れなくなる。
以前のような関係には帰れなくなる。
一線画した筈の【こちら側】の世界には、きっと。
実際のプロセスがどうであれ、
結果がどうであれ、
心の葛藤というものは少なからず芽生え、
そして確実に存在を主張します。
初めは小石の様に小さなしこり程度のものなのだとしても、
気持ちに気付いた瞬間、そして想いが募れば募る程、
それは次第に大きく肥大し、そして枯渇を始めます。
渇きが満たされなければ、やがて苦しさを覚え、痛みを伴い始めるのです。
こんなに大切にしているのに、どうして伝わらないのか。
こんなに想っているのに、どうして届いてくれないのか。
こんなに好きなのに、どうして気付いてくれないのか。
想いとは【重い】ものです。
抱え過ぎれば己を潰します。
そしてそれは、
とある境界線に触れた瞬間から憎しみの色を滲ませます。
こんなに苦しんでいるのに、どうして分かってくれないの。
こんなに想っているのに、どうして私は報われないの。
こんなに傷付いているのに、どうしてあなたは、と。
こんな筈じゃなかった。
こんな気持ちになる筈じゃなかった。
ただ、「好き」だった。
それで良かった筈なのに、どうして。
お門違いな感情だって、本当は分かってる筈なのに。
それでも簡単に手放せる程、
想いとは単純なものではなく、
それすらも「愛おしい」と感じてしまうのも、また事実なんです。
相手を憎み、愛おしむと同時に、
そんな自分がひどく悲しく、哀れで、どうしようもなく嫌いになる。
なんて醜く、憎らしい感情なのかと。
こんなに辛くなるくらいなら、出会わなければ良かったとすら。
愛おしみ、憎み、悔やみ、責め続ける。
だから、【愛憎】なんて言葉が存在するのだと思います。
個人的に【究極の愛】とは、母が子に注ぐそれだと思うのです。
母は自分の命を懸けて我が子を産み、そして育てます。
愛情を注ぎ、守り続けます。
例えどれだけ疎まれようと、心無い言葉を浴びせられようと、
例えどれだけ、身を引き裂かれる程の思いをさせられたとしても。
それでも変わらず、我が子を愛し続ける。
きっとそこには、見返りなんて求めていないと思うのです。
ただ、子供が元気でいてくれればそれで良い。
幸せでいてくれればそれで良いと。
我が子が幸せに生きていてくれる事こそが、幸せ。
だから母は偉大なんです。
そしてだからこそ、最近こう思うのです。
私にとっての「愛」とは、【幸せ】です。
そして【幸せ】とは、変わらず大切な人の笑顔を願い続けられる事なのだと。