他人に対して感じる「許せない」部分って
自分に対して課している「許せない」部分でもあるのだと思うんです。
ひと度なぞればピシリと陶器を裂く様な、
袖振り合えば世界をも波動する様な、
何ぴと足りとも踏み込む事を許さない。身の内の最も辺鄙(へんぴ)で危うい部分へ据え置いた、脆くも切り立つ心の静寂。
例えば電車の中で妊婦さんやご年配の方に席を譲らなかった人が居たとして、
その人に酷く腹が立ったとする。
でも、もしかしたらその人は、
一日ずっとご両親や目上の方の介護に就かれ、
精魂尽くしやっとの思いで電車に乗り込んだ人なのかも知れません。
また或いは、部活動で校庭のトラックを何十周も走り尽くし、
脚に鞭打ち帰路に着き、
明日も朝から練習へ赴く学生なのかも分からない。
そんなのっぴきならない事情が必ずしも誰もに通ずる訳ではありませんし、
その限りでは無いだろう事も重々承知はしていますが、
きっと誰しも、そんな【良心を痛めた経験】を、
人生ある内の一度や二度は持っているものだと思うのです。
人を許す事が出来ないのは、
そうである自分自身を許す事が出来ないからです。
人の行動ひとつにも、
その選択に行き着くまでには背景があってルートがあって、
その一行を結ぶまでのページが必ず存在します。
【言動】とは、
そのルーツを辿った先で最終的に表層へと吐き出され、外界へと弾き出された【結果】です。
ようやく人目に触れ日の目を浴びた、
他人から見える只ひとつの【現実】です。
人は、人の身の内から出た言葉ひとつ行動ひとつを逐一辿って行けるほど、
自分の時間にも他人の時間にも寛容では居られません。
その人の言動へと結んだ点と線を掻い潜って行間を読んで行けるほど、
自分の心にも他人の心にも俯瞰的では居られません。
人は、他人の全てを把握する事も掌握する事も適いません。
でも、例え他人の事情は分からなくとも、
自分の事情は分かります。
自らの感情を辿り精査する事も可能です。
自分の事は、自分が一番よく分かってあげられる筈なんです。
そして自分を知ってあげられるようになるという事は
自分を許して行くという選択へ繋いで行く事も出来るという事だと思うのです。
自分の「許せない」部分を許して受け入れる事が出来るようになり始めると、
自然と心が柔らかくなって優しくなれて、
今自分と同じような状況下や立場に居たり、
立ち居振る舞いを取る誰かの事も、許してあげられるようになるんですよね。
自分を許す事は自分を許容する事で、
「こんな自分が嫌い」だと拒むだけでなく、
「こんな自分も自分のひとつ」だと、
甘受して受け止めてあげられるようになるんです。
自分を許す事で、
心の琴線を緩めて余白を空けて、
そこに他人を受け入れ隣に腰を下ろす事を許せるだけの器の猶予を置けられる。
そうすると自ずと、
きっと前よりほんの少しだけ
自分の事を好きになっていく事が出来るのだと思うのです。