キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

慕わしく思う気持ちって、 その人の凸に憧れて、 凹を愛おしく思う事なのだと思うのです

 

人は所詮、他人同士。

人はどこまでも異質同士。

 

そうして自分とは違うと【認める】事が出来るから、

 

自分とは異なる存在なのだと【受け入れる】事が出来るから、

 

 

だから惹かれ合うのではないのでしょうか。

 

自分とは相異なる存在なのだと【認識】する事が出来るから、

だから興味を惹かれるのではないのでしょうか。

 

関心を持たずには居られないのではないのでしょうか。

 

 

自分に無いものを持つ人というのはそれと同時に、

自分には有る物を持たない人だという事でもあるんです。

 

 

だから互いが【尊重】の存在で在り続ける事が出来るんです。

 

確立した独立性を享受し合う事が出来るんです。

相互の理解を深め合って行けるんです。

心を通わせて行けるんです。

 

 

例えば誰かを慕う時、

慕わしいと思う気持ちを抱く時って、

 

【憧れ】や【羨望】といった【尊敬】の感情から端を発する事が多いような気がするのです。

 

自分には無いものを携えている人だから。

自分が「こうなりたい」手蔓の一端に気付かせてくれる人だから。

 

指針を示してくれる人だから。

 

 

だからその人に興味を惹かれる。

その人の事を「知りたい」と思う。

 

 

そうして知って受け入れていく内に、

やがて見え始めるほつれた部分を親しみ深くも感じてしまう。

 

人間らしさを懇意に思い、

その人の情味に近やかさを自覚する。

 

だから心を寄せて行くし、

「守りたい」とも思ってしまう。

 

 

 

そのままで良いから、

それを補える自分で居たい。

 

 

慕わしく思う気持ちって、

その人の凸に憧れて、

凹を愛おしく思う事なのだと思うのです。

 

そうした突出と稚拙さが存在して、

支え合って補い合って、

噛み合う関係性を築いて行く事が出来るから、

 

だからその先へ転がって行けるんですよね。

 

前進して行く事だって出来るんですよね。

 

 

 

夫婦も親友も相方も、

「パートナー」と呼ばれる存在って、

そうした互いの【型】を守り合って行ける関係だから、

 

 

 

だから共存出来るんですよね。

 

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