ネガティブなものを見ないと言うよりも、
「ネガティブだと認識している一個体」を見回してみるというイメージ。
サイコロや六角鉛筆の面みたいに、
「こう」だと知覚した一面には他にも必ず【面】はあります。
或る【一画】を認識したという事は、他の区画を知見する事も必ず出来る筈なんです。
「見たいもの」を引き出す意識が養われると、
自ずと自分の世界って【良いもの】しか集まらなくなるんですよね。
と言うか、「【良いもの】としてしか見ない」と自分が先に決める事で、
物事や一事象に対するポジティブな面を拾い易くなるんです。
【認める】と言うハードルに躓かなくなって行く。
【良いもの】に集中する目が意識の板に付き始めると、
目の前で起こる出来事や身の内で彷彿する情動に対して【前向き】か【後ろ向き】かで判別を起こすその前に、
その物が持つ肯定的な【区画】にスポットライトを絞れるようになるんです。
自分が「見たいもの」を世界に置ける様になって行く。
「嫌なもの」として一度解釈を置いたものでも、
その「嫌なもの」という【一面】で感情を育てるのでは無く、
【二面】や【三面】を回し見る作業を設ける事が出来る様になるんです。
「良い」か「悪い」かを判断するのが自分なら、
目の前の景色を「幸せ」で囲うも「不幸」で満たす自分の解釈一つです。
「幸せになりたい」と願うのならば、
「【幸せなもの】としてしか見ない」と自分が先に決めるんです。
自分の世界って、それこそ自分で作る事が出来るんですよね。
自分で「決める」事が出来るんです。
【幸せ】とは「して貰う」事では無くて、
「それ」に気付いて感謝する事なんですから。
見る目に「自意識」を持ち始めると、
そのイニシアチブって自ずと周りへの解釈や捉え方にも歩調が届く様になるんですよね。
見たいものを引き出せる様になって行くし、
「見出す事」が出来る様になって行く。
もっと立体的に複眼的に、
人や事象を【承認】して行く事が出来る様になるんです。