その人の選んだ行為は、
恐らく何千人もの方々に影響を与えたのだと思う。
人ひとりの【後にも先にも「もう無い」時間】がその人の針で埋まっていた。
少なくとも、私の中の朝の時間には確かにその人が存在した。
その人が影響を与えていた。
一生の内の最初で最後の二時間は、
その人で動かされていた。
駅員さんの声は朝からとても懸命でした。
駅から人が溢れていたし、
私もまた人波の内の一人でした。
SNS上では「電車が止まった」「振替輸送は」「迂回路は」等の声が絶えず画面上を下から上へと流れていました。
運転が再開して人が流れて、
私含めた黒山の様な人だかりが整然とホームに並び始めて。
手足は当に冷えていて、
かじかんだ爪先は「冷たい」を通り越して痛かった。
でも、それだけでした。
その程度の事でした。
明日になれば、私はもう忘れてるんです。
ホームから人が飛んだ事も。
その方の死を悼んだ事も。
名前も知らぬその方の事を、
きっとそれ以上気に掛けない。
その人が生きていたのなら、
もしかしたら出会う日もあったのかも知れません。
どこかで知り合う瞬間が巡って来たのかも分からない。
私の中で【二時間で終わる人】では無くなっていたのかも知れません。
「名前も知らない誰か」で留まらなかったかも知れない。
ものの数時間で忘れられる人にはならなかったかも知れない。
私の人生に【居てくれる】人だったのかも分からない。
その人が影響を与える人が、
これからどれだけ居たのだろう。
これからその人に出会える人が、
一体どれだけ居たのだろう。
どれだけの人生を変えれただろう。
生きて居て欲しかった。