感情って心のモヤモヤや引き攣る感じとか、
心臓が肥大したり窄む様な痛くも心地好い感覚とか、
物凄く漠然として抽象的で、
曖昧で不可思議的な言い表しから始まるのだと思うんです。
そしてそれらの心的現象に対して「悲しい」や「悔しい」という名前を付ける事によって、
初めて感情として切り出せる。
だけどそんな一言二言で表現が適ってしまう程、人の感性は単細胞的ではありませんし、
もっと複雑で入り組んでいて、
交錯も埋没もする混沌で生々しいものだから、
その生々しさを目に見える形に【具現】したくて、
独特な言葉表現や心理描写と言う物は使われるのだと思います。
その為には【意識】を頭に持つのでは無く、「心に降ろす」と言う行為がこの上無く重要なんです。
端的な言い方をするとするならば、
【感じる】事が物凄く重要なんですよね。
実際に「そこ」まで行って味わう。
「心をまさぐる」と言う作業がどうしても必要になるんです。
苦しくならなきゃいけないし、
自分が痛くなれる場所まで深まらなきゃ行けない。
深海に埋まって行く様な重苦しさと心臓の毛一本一本、爪で掻き剥がして行く様な億劫さがあるけれど、
【成長】や【気付き】って苦しみや痛みの中でしか掠め取る事が出来ないから。
痛覚が晒されている時じゃなきゃ人は感度良くなれないから、
傷が無いと【喜び】や【幸せ】に「痛み入る」事は出来ないから、
だから苦しさやしんどさを感じる時こそ、
「自分が成長するチャンスなんだ」と私は本気で思ってる。
「ピンチはチャンス」なんて良く言ったものだと思います。
だからどれだけ億劫でも目を背けたくなったとしても、
結局は「苦しさ」を欲してしまうし、
「痛み」を求めてしまうんですよね。
自分の為に「苦しさ」を利用している。
だからこそ、【人生は遊び】だという感覚が強いのかも知れません。
【自分】で遊んでいるんです(笑)