キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

【慈愛】は【自愛】

 

先日私が対応させて頂いたお得意先様から弊社宛に一本の電話があったそうです。

 

丁度自分は外出中でその場に居合わせる事は無かったのですが、

出先から帰社したタイミングで、営業さんが嬉しそうに通話内容を教えに来て下さいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えみさん、〇〇(得意先名)の社長が褒めてたよ。『御社の事務員さんはお話の仕方が明るくて良い。対応もハキハキしていてとても気持ち良かった』って」

 
 
 
 
職場での自分は基本的に淡々と仕事をしている場面も多いのですが、
これが電話口ともなると目線やお顔を確認出来ない【不確かさ】も相まって、淡白なテンションがお相手の心へとダイレクトに伝わり易くもあるんですよね。
 
それはお相手からのリアクションを吸水して、
一回りも二回りも膨れ上がった「印象」なり「こぶ」として残り易くもあったりする。
 
 
 
なので通話中は抑揚の歩幅を大き目に確保してみたり、
あるいはメトロノームで言えば60くらいの速度の意識を舌先に含めてお話する事を心掛けていたのですが、
 
その「自意識」をお客様の「意識」として汲み取って頂けたのが、今日のお昼過ぎでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これは決して「誰かの為に」と続けていた事ではなくて、
 
あくまでも私が【私】を目指し続けていた先で着いて来てくれて結果であり副産物なのだろうなと思うんです。
 
 
 
 
 
「自分の為に作りたい」と育み続けていた作物を、
たまたま誰かが食べてくれて「美味しい」と言って笑ってくれた。
 
目指したい自分を目指していたら、【喜び】が輪を掛けて還って来た。
 
自分で自分を満たしてあげるばかりでなく、
誰かから貰えた「ありがとう」という付加価値によって幸福が倍々になっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
「そんな自分で在りたい」と努め続けていた事が誰かにとっての心地良さに通じていて、
その方の【心地良さ】を介して今日も自分に笑顔の贈り物をプレゼントする事が出来たんです。
 
自分の為の喜びが、
いつの間にか「自分だけの喜び」ではなくなっていた。
 
 
ここで言う「自分の為」とは徹底して、
【自分がそうで在りたい自分の為】という意味で用いているのが話の味噌でもあるのですが、
 
 
 
 
これはきっと、誰に何をするでも同じなんですよね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こういう自分に成れるように努めたい。
あるいは誰かにこんな事をしてあげたい。
 
最初のベクトルが自分であれ他者であれ、
自分にそれを「選ばせてあげたい」という自発から起こる行為である事に変わりありませんし、
「それをしてあげたい自分」の為に動けているという事実に嘘偽りも無いんです。
 
 
 
どれだけ自分が嫌いな人であったとしても、
自分を嫌いになる為の努力だけはしていない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自分へ向ける【自愛】は他者への【慈愛】として実を付けてもくれますし、
 
他者への【慈愛】は自らへの【自愛】として身に着いて来てもくれるのだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あ。   ちなみに電話での遣り取りの際でも声に感情を連動させてあげる秘訣は、
 
電話口でも身振り手振りを一切惜しまない事です。
 
 
 
 
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