交際している相手との間に隔たりが生じたとする。
関係性が陰り始め、
状況次第では暴力を振るわれるまでに及ぶとする。
周りからは「やめた方が良い」、「別れた方が良い」と異口同音に諭される。
それでもその人は紋切り型の返事を返す。
「でもあの人にも、良いところはあるから」と。
「優しいところがあるから」と。
多少、語弊が生じる言い方にはなりますが、
個人的には「優しい」のは当たり前だと思っています。
人は自分の見たいように見、
聞きたいように聞き、
受け取りたいように受け取るんです。
何故なら、自分がそれを望んでいるから。
例えば赤信号で停車している間、
運転手は常時、目の前の信号が青色へ切り替わる瞬間に意識を集中します。
運動会の借り物競争では、
紙に記されたお題を確認するや否や、走者の意識は指定された目的物のみに注がれます。
子供の頃に遊んだ色鬼では、
鬼役が指定する色を告げた時点で逃げ手はその色にしか目が行かなくなります。
その色彩のみに注目し、
自分の世界はその一色で満たされるんです。
そのたったひとつが、自分の世界となるのです。
人は、自分が見たいもので世界をつくる生き物です。
無作為に飛び込んで来る現実を、
思想や感情で結わえ、組織化した感覚領域の介在を経て捨象し事象する生き物です。
つまり自分が目にしているのは「ありのままの真実」ではなく、
「自分に則した事実」です。
「あの人は優しい」
それはつまり、その人が相手の「優しいところ」にフォーカスしているという事であり、
数多く有る場面の中から常に相手の「優しさ」を目敏く検知しているという事なんです。
焦点を絞り抽出し、
目の前へ抜き出し膨らませ、
自分の視界にでかでかと広告しているんです。
自分がそれを望んでいるから、
そうでありたい様に捉えるんです。
認識したい様に認識するんです。
だから、「優しい」のは当たり前なんです。