キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

押して進むものが「無理をする」という事ならば、 押して倒れるものが「無理を押す」という事です。

 

「無理をする」と「無理を押す」では、その意味はまるで異なります。

 

 

 

個人的な意見を言うとするなら、

「無理をする」とは、必要な行為です。

 

 

何故なら、無理をするとは【自分への挑戦】だからです。

自分の今出来る許容範囲を超えて行く事だからです。

 

 

限界を超え枠を壊し、

自分の可能性の裾野を広げ、

 

自分という器を押し広げる事でもあるからです。

 

だから「無理をする」とは、【必要な行為】なんです。

【必要な作業】でもあるんです。

 

 

只、これが「無理を押す」という言葉へ変わった途端、

ニュアンスもまたガラリと様相を変えるのです。

 

「無理を押す」とは「無理を助長する」という事です。

見極めが付かなくなる事であり、

見切りが付かなくなる事です。

 

 

推し計り所が分からなくなるという事であり、

収め時が分からなくなるという事です。

 

 

押して開くものが「無理をする」という事ならば、

押して傾くものが「無理を押す」という事です。

 

 

 

押して進むものが「無理をする」という事ならば、

押して倒れるものが「無理を押す」という事です。

 

 

 

自らを押し伸ばす行為を「無理をする」と言うのなら、

自らを圧し潰す行為を「無理を押す」と言うのです。

 

 

自らを発展させる行為を「無理をする」と名付けるなら、

自らを荒廃させる行為を「無理を押す」と名付けます。

 

 

 

自らを生かす行為を「無理をする」と呼ぶのなら、

自らを殺す行為を「無理を押す」と呼ぶのです。

 

 

「無理を押す」とは、そういう事です。

 

 

それだけの意味を孕むんです。

 

「無理をする」と「無理を押す」では、

その意味は天と地ほども変わるんです。

 

それほど【結果】は変わるんです。

それほどの差異を生むんです。

 

 

 

それほどまでに、両者の末路を明確に分かつものなんです。

 

ブログランキング・にほんブログ村へ