気に掛かれば相応に世話だって焼くのでしょうし、
危惧をすれば厚手がましく首を突っ込みもするのだろうと思うのです。
憂慮をすれば無礼を承知で口出しだってするのでしょうし、
辛辣な言葉を敢えて掴み出し伝える事もあるのだろうとも思うのです。
選び抜いた残酷な言葉を使わざるを得ない瞬間だって時には避けられはしないでしょうし、
そうして自ら矢面に立つ日もあれば、
その言葉の先でいつか返って来るであろう業と報いを確かに見ながら、
その手を泥水へ浸す場面を迎えに行く日を先んじて予見して受け入れているのかも分かりません。
それでもきっとその人は、
自分の示唆や所見や意向や主観を相手へ求めはしないんです。
意見の同意も、価値観の同調も欲しい訳では無いんです。
その人はただ、
自分の想いを知って欲しいだけなんです。
気持ちを置かせて欲しいだけなんです。
自分の想いを伝えた上で、
相手の元へと届けた上で、
その想いを相手が受けたその上で、
掌に置いたその先で、
相手が相手自身の意志を通してくれるなら、
貫きたい【筋】を相手自身の心に確かに根差してくれるなら、
そしてそこに、確固たる信念があるのなら。
その人はそれを心の底から尊重し、
またそれと同時に、
「この人の意志を応援したい」と、
「支え守り寄り添いたい」と、
そう切に願わずには居られないと思うのです。