キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

「倣う」、「倣わない」を「意見する」、「しない」の判断材料にはしていない。

 

基本的に相手に意見する時は、自分が相手に期待する時。

 

 

これは相手が自分の考え方を「許容してくれる」という意味での【期待】であって、

自分の発言に「倣ってくれる」という紙背を含んだ【期待】という意味では断じて無い。

 

 

 

そもそも「倣う」、「倣わない」を「意見する」、「しない」の判断材料にはしていない。

 

 

元より言葉の根に「直して欲しい」という趣旨が無い。

根本が違うし門(かど)が違う。

 

 

【矯正】は時に【強制】だ。

 

 

 

意見とは選択肢を増やす一翼にこそ成ろうとも

人ひとりの可能性を【強制する】権利は持っていない。

 

人は体感する事で、身を以て実感する事で、

初めて納得という【身】を腑に落とせる。

 

 

相手が納得を落とす為に芽吹いた【経験の芽】を、

こちらから摘み取る権限は無い。

 

 

 

 

だから自分が意見する時、

 

それは「互いから離れない」という前提での【意見】です。

こちらから投じる不安も不服も、

 

相手が向ける不平も不服も許容に含んだ上での意志の開示です。

 

 

 

 

話しても上滑り出来る相手なら

そうなる事が明らかなら

 

諦めが付いているのなら

 

 

 

初めから意見はしていない。

 

 

自分の【意思】は見せていない。

 

 

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