今から約5年前。姪がまだ生後間も無かった頃。
新生児聴覚スクリーニング検査を数度繰り返す中でお医者様から言われたのは、
「聴覚が失われている可能性がある」と言う事。
子供用の補聴器を調べながら現実を受け止めようと努めながら一縷の望みを信じながら、
日に日に疲弊していく姉の姿を見ていました。
これ程何も出来る事が無い中で自分に唯一出来たのが、神頼み。
多分これが、私の記憶に残る最後の「お願い事」でした。
毎朝5時に起きて神社へ参拝して祈願をして帰って来る。
中にはメディアで取り上げられる様な有名な神社から、安産に関連した神様を祀っているお社を調べて足を運んでみたりして。
参拝の度に唱えていた決まり文句が
「私は結婚出来なくて良いから、ご縁の代わりに姪の耳を聞こえさせて下さい」
だったのは中々滑稽だけど。
我ながら相当逼迫していたと言うか、必死だったのだと思う。
ただ本気だった。
本気で自分にあるもの全部あげたいと思っていた。
多分それは、今も変わらない。
何より今自分に持てる物全部あげても、
私は私の意思で幸せになるし、
例えライフが0だとしても、人に与える事は出来て、それが自分の気付きになる。
その気付きが0だったライフを1にする。
それを分かっていたからこそ、
「与えられるものは全部あげたい」
そう思っていたし、今もずっと思っている。
これは姪の為と言うよりも、当時日を追う事に髪が乱れて弱々しくなって行く姉の姿が見ていられなかったからだけど。
姪は小さな身体で頑張ってくれていた様で、
何回目かのスクリーニング検査で漸く耳の聞こえが確認されました。
今ではすっかりおしゃまになって、元気に幼稚園へ通っています。
この頃から何となく思いました。
神頼みって、自分ではどうにも出来ない事に対してするものだって。
自分で叶うものならば「自分にお願いするべき」だって。
願うも祈るも動くのは自分の身一つだから。
いつだって動かせるのは自分の体一つだし、
自分の体動かせるのは、自分の中にしか無いんですもの。