キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

愛される自分になる為の愛される努力を、誰が嗤うと言うのでしょう。


「人の為」と書いて「偽善」と読むなんてよく聞く言葉ではありますが、

その真意って詰まるところ、


「人の為」になりたい自分の為でもある訳で、


「誰かの為になりたい」という建前の後ろに「誰かに求められたい」自分も居るから【偽善】なんて皮肉られる事もあったりするのだと思いますが。






でもそれってつまり、

「誰かの為になりたい」自分の気持ちを【応援してあげられている】という事なんですよ。



だから思うんです。


偽善の何を憚る必要があるのだろうと。

何に劣等し何を後ろめる必要があるのだろうと。






自分だって【人】なのだから、

「人の為」の中には本来自分も居なきゃいけないんです。



誰かに必要とされたい。


誰かに求められたい。


誰かに「好き」と言って貰いたい。





その為の【努力】の何を恥じ、

何を責めると言うのだろう。


それは【愛される自分になる為の努力】をしているという事で、



【自分を愛する努力】をしているというところに通ずるのではないですか。




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