私事な話。
基本的な軸として、苦手な事は得意な事に転じ易い傾向にあります。
最初から何となく【出来る事】って
体感的、感覚的に要領を得て行く節があるのですが、
対して「苦手意識」を持っている所謂【出来ない事】を行うに当たっては
論理的、思考的経路から理解を深めて行く場合が多いんです。
【出来る事】が「素質的」で
体で覚えて行くイメージがあるとするならば、
【出来ない事】は「素材的」で
頭で分析して道理を得てから実践を踏み起こして行く。
そんな印象があります。
「素質的」な人であれば感覚で賄える基礎固めを、
「素材的」な人は細やかに建設的に解体して行く必要がある。
だから「素材的」な観点で足場から解釈を踏み上げて行く場合には、
「素質的」な手法で経路を辿るよりも遥かに時間も労力も費やす必要があるんです。
そしてその反面というか、
その恩恵として。
「素材」は「素質」以上の確かな骨組みと筋立てた解釈を組み上げる事が出来るようになるんですよね。
道理や手順に納得を得てから足場を築き上げる事で、
綻びや歪みが発生した際の分析が追える様になる。
地頭で「考える」事が出来るようになるんです。
解釈と実践の反芻を踏む事で、
俯瞰的な目を養って行く事も出来るようになるんですよね。
順序立てて事の顛末を追跡し、
道理に基いて分析出来る。
だから「不得意」な事は「得意」な事以上の理解を深められるようになりますし、
結果的に「苦手」な事は「得意な事」に転じ易いんです。
更に粒立てた解釈は文章としても書き興し易くなり、
他者への説明を行う際にもその「経験」は一役買ってくれるんです。
他者へ向けて投じる言葉と同じ様に、
自ら掴んで投じた時間はブーメランとなって必ず自分の手元へ返って来ますし、
自分の時間として還って来ます。
それを改めて体感し、
実感した今日でした。