朝起きる時は大抵いつも憂鬱です。
夜寝る時に押せる「何も考えなくて良い」オフスイッチから引き剥がされ【起動】に切り替えられる瞬間の強制力と言うものは、
何とも寝覚めが悪いです。
でも今ここに居る自分って、
敷いて言ってしまえば物理的にも心理的にも【これからどこにでも行ける】んですよね。
近場であろうと遠方だろうと、
「行こう」と思えば何処へだって行けるんです。
【どこにでも行けてしまう】自分って、
【どんな感情にも成れる】んですよね。
詰まるところ今ここに居る自分って、
【これから何にでも成れてしまう】自分を示唆しているんです。
不安と言う感情は「まだ無い」から【不安】なのであって、
憂鬱は「為さねば成らない」から【憂鬱】を感じるのであって、
じゃあ今抱える「不安」があるとするならばそれは、
【これから何にでも成れてしまう】という符牒なんです。
今この時に「憂鬱」を感じるならそれは差し詰め、
【これから何かを為せてしまう自分】に暗に気付いているんです。
だから「まだ何も無い」朝って、
こうも反動が大きいんですね。
一日の内で「何でも出来る容量」を一番残している時間だから。
「どうにでも動く一日」が最も飽和している時間だから。
「不安」や「憂鬱」って、
【能動】や【革新】に対するある種の保守反動なのだと思います。
【これから何にでも成れてしまう】合図であって
【何かを為せてしまう】自分が身を以て起こす「兆候」の様なものなんです。
そう腑に落とす事が出来た時、
毎朝の習慣に漸く【換気】と【切替地点】を設ける事が出来たんですよね。