譲歩も歩み寄りも無くしてはならないその側面で、
それと同時にそこには必ず【目的意識】がなければならないのだと思うのです。
そうでなければ、他の意志を通す行為は「譲歩」や「折り合い」ではなく、
「イエスマン」という不本意な着地地点に落着しかねないと思うからです。
譲歩するなら、
引き下がった分だけ埋めてくれる相手の【意志】を。
歩み寄るなら、
相手が許してくれた空白に灯す【充足】を。
ぶつかり合うのではなく、
遠慮し合うのでもなく、
噛み合せる。
そうして合口を合わせる事が出来るから、
歯車として回って行く事が出来るんです。
共に前進出来るんです。