キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

最低な【励まし】


物凄く性格の悪い事を言いますね。



私は自分がしんどい時、

誰かが「辛い」と言ってくれるとホッとするんです。


私にとっての近しい人が、堪らず「苦しい」と零してくれると安堵さえ覚えてしまうんです。




傷の舐め合いなんてまるで望んでいませんが、


今自分と同じように底に足を着いた人の存在を知った時。


自分だけだった世界に急に【隣人】が現れたような、そんな【心の杖】を感じずには居られません。



悩みの種類も内容も、

状況も経緯も取り巻く環境も何一つと被るものは無いけれど、

決して同じ【痛み】を感じられる訳では無いけれど、

交換出来るでも無いのだけれど、




誰か大切な人が「辛い」と告白してくれると、

勝手に痛みを肩代わり出来たような心持ちがしてしまうんです。


その人の重みを私が肩代わりして

私の生き辛さをその人が片腕に持ってくれているような、そんな気さえしてしまうんです。


互いに互いの【重み】を抱えられている気がするから。

一人で背負い続けていた苦しみが分散される気もするから。



その人が【辛い】と伝えてくれる事で

口から吐露してくれる事で 


「今、私とこの人は一緒に苦しいんだ」って

「共にこの時間を越えようとしているんだ」って


独りよがりに悲しみや苦悶を分け合えている気持ちになってしまうんです。

分かち合えている様な錯覚を身に覚えてしまうんです。




そうしたらほんの少しだけ、

心の重石が解けて行ける気がするから。

少しだけ呼吸が楽になって、


今この瞬間だけ、

心が救われたような気がするから。



「一緒に苦しいんだったら、一緒に耐え抜こう」って、

「一緒に今この感情を越えよう」って、


そんな【力】にさえ変換されてもしまうから。




「ひとりで抱える重力じゃないなら頑張れる」って、

「ひとりじゃないから耐えられる」って、


勝手な結束力を自らに生んでしまうんです。


勝手に励まされてしまうんです。





私が「つらい」と言った時に、

同じように救われる人が居たら良い。


同じように、【今この瞬間のチカラ】になれる人が居たなら良い。



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