キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

【不変(普遍)】の前には常に【変動】という歴史がある。


普段自分達が歩行や運転、通勤や通学に使用している平らな道。



私自身も表現の一角で「平坦な道」という比喩を使った事がありますし、

今後も汎用するレトリックの一つだと思うのですが。


そもそも道って

凸凹している事が元々の「平凡」なんですよね。




道が平たいのは舗装してくれる国や企業があったからで、

紛争や犯罪を「非凡」と呼ぶ事が出来るのは、


それが「平凡」である事を認めない人々が居てくれたから。




慣らし反芻し習慣化したものを「普通」と呼ぶとするのなら、

平坦って、

それ自体が地ならしをして来た【時代の跡】と言えるのかも分かりません。



道路の塗装に線路の施工、

資格の勉強や進級や、

引越しや就職や何かを「やる」と決めた時。


「道は凸凹」がそもそもの普通。





だから平坦さも平らに続くルーティンも、

それまでに努めて来た自分自身の尽力や、


それを支える事を【常】として来てくれた誰かの存在があったという印なのだと思うんです。




「誰にでも出来る」という事と、「誰もがやる」のかという事。


「誰にでも出来る」という概念が実際に存在したとして、


それを誰もが「やる」のかと言えばそうでは無いし、

万人が【意欲】を伴えるものでも【心労】を賭せるものでもない。





誰もが射貫こうと思える的じゃない。


だから誰もが射貫ける的じゃない。






何かを「やる」という事は、


それ自体が【特筆】して【別格】という事なんですよ。



【慈愛】は【自愛】

 

先日私が対応させて頂いたお得意先様から弊社宛に一本の電話があったそうです。

 

丁度自分は外出中でその場に居合わせる事は無かったのですが、

出先から帰社したタイミングで、営業さんが嬉しそうに通話内容を教えに来て下さいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えみさん、〇〇(得意先名)の社長が褒めてたよ。『御社の事務員さんはお話の仕方が明るくて良い。対応もハキハキしていてとても気持ち良かった』って」

 
 
 
 
職場での自分は基本的に淡々と仕事をしている場面も多いのですが、
これが電話口ともなると目線やお顔を確認出来ない【不確かさ】も相まって、淡白なテンションがお相手の心へとダイレクトに伝わり易くもあるんですよね。
 
それはお相手からのリアクションを吸水して、
一回りも二回りも膨れ上がった「印象」なり「こぶ」として残り易くもあったりする。
 
 
 
なので通話中は抑揚の歩幅を大き目に確保してみたり、
あるいはメトロノームで言えば60くらいの速度の意識を舌先に含めてお話する事を心掛けていたのですが、
 
その「自意識」をお客様の「意識」として汲み取って頂けたのが、今日のお昼過ぎでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これは決して「誰かの為に」と続けていた事ではなくて、
 
あくまでも私が【私】を目指し続けていた先で着いて来てくれて結果であり副産物なのだろうなと思うんです。
 
 
 
 
 
「自分の為に作りたい」と育み続けていた作物を、
たまたま誰かが食べてくれて「美味しい」と言って笑ってくれた。
 
目指したい自分を目指していたら、【喜び】が輪を掛けて還って来た。
 
自分で自分を満たしてあげるばかりでなく、
誰かから貰えた「ありがとう」という付加価値によって幸福が倍々になっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
「そんな自分で在りたい」と努め続けていた事が誰かにとっての心地良さに通じていて、
その方の【心地良さ】を介して今日も自分に笑顔の贈り物をプレゼントする事が出来たんです。
 
自分の為の喜びが、
いつの間にか「自分だけの喜び」ではなくなっていた。
 
 
ここで言う「自分の為」とは徹底して、
【自分がそうで在りたい自分の為】という意味で用いているのが話の味噌でもあるのですが、
 
 
 
 
これはきっと、誰に何をするでも同じなんですよね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こういう自分に成れるように努めたい。
あるいは誰かにこんな事をしてあげたい。
 
最初のベクトルが自分であれ他者であれ、
自分にそれを「選ばせてあげたい」という自発から起こる行為である事に変わりありませんし、
「それをしてあげたい自分」の為に動けているという事実に嘘偽りも無いんです。
 
 
 
どれだけ自分が嫌いな人であったとしても、
自分を嫌いになる為の努力だけはしていない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自分へ向ける【自愛】は他者への【慈愛】として実を付けてもくれますし、
 
他者への【慈愛】は自らへの【自愛】として身に着いて来てもくれるのだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あ。   ちなみに電話での遣り取りの際でも声に感情を連動させてあげる秘訣は、
 
電話口でも身振り手振りを一切惜しまない事です。
 
 
 
 

【どうでもいい自分】なら「不安」を覚えたりなんてしない。


小一時間にも満たない短かな時間ではありましたが、ほんの少しだけ恋愛相談をお受けしていました。




想いを寄せているお相手に不安な気持ちばかりを募らせてしまうという彼女。


「何で私はこんなに弱いんだろう」と言っていたけれど、


弱いんじゃなくて、

自分を大切にしてあげたいだけなんですよ。



「抜群」とは、何もの達から【抜きん出る】という事です。


比べられるという事は、

他者と比較出来る程の【違い】を自らが持っているという事なのだと思います。


周りから見分けられる程の【独立】が自分に有るという事。




同率の背丈と一律した足並みならば、

誰もが持ち得るものならば、

群像の中から【唯一】を「見分ける」事も「比べる」事も儘なりません。


詰まるところ「比較」とは、

その方を【抜き出す】作業の事を指すのではないかと思うんです。


人垣から「たった一人」を掬い上げる行為の事。





それが例え憂き目でも引け目でも、

「自分には無いもの」を「持っている」とするのなら、

それは決して誰もに持ち得る事は叶わない自分だけの【異彩】です。



多くの中から抜きん出る事を「抜群」と呼ぶとするのなら、


あるいは【不得手】であれ【非力】であれ、

「心に臆したもの」が努力や慈しみを捻出する【活力】に成ると言うのなら、


その劣等感や特筆や、

「誰かと比べずには居られない自分だけの古傷」は、





間違いなく自分だけが持つ【抜群】です。




アルデバラン

アルデバラン

アルデバラン

  • AI
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes


「君と私は仲良くなれるかな

この世界が終わるその前に」


「笑って笑って 愛おしい人

不穏な未来に 手を叩いて」




この歌がこの声がこの想いが、

今すぐ海を越えた向こうの地まで届いて欲しい。


手を差し出し合う事によって組み合える。


今日は社内SEの方との内電に一日の大半を捧げました。


PCより電話に触れている時間が圧倒的に多かったのは気の所為ではないのでしょう。

受話器を置く頃には多分お互いにとても疲弊し切っていた。


システムには滅法弱い自分なので、

お昼を挟んで最後まで食い下がってくれたお相手に頭が上がりません。




そうして中で思ったのは、

自分の手が詰まった時、

活路を開く【目】や【知識】で居て下さる人が居て、

両手が離せなくて次を掴む手がなくなった際、

代わりの【手】になる存在で居れる事が嬉しかった、という事です。


「次」を渡し合えている。

お相手が右足を振り出す為の【左足】で在れているのだなと改めて感じた一日です。


互いの手を組み合うこと。


だからチームって「〜組」と表記したりするのかも知れないなぁ。



【みそたろー】というアーティストさん

愛

  • みそたろー
  • J-Pop
  • ¥1428


【Blame It On You】が大好きです。

【泪】はこの先もSNSやサブスクを通して幾度となく聴き添わせて頂くかと思います。



「あっという間」を直に感じられる程の「最後までチョコたっぷり」なトッポLIVE、


共に体感させて下さり有難うございました❁



そして改めて、28歳のお誕生日おめでとうございます。


自分の【芯】を象るものに、「良い」も「悪い」もないんです。

 

これまで生きて来た自分が【自分】を象る教材なり素材となって今の自分を成している。

 

 

そこに居るのは決して「努力して来た自分」だけではなくて、

学校を休んだり笑われたり、

夢中で何かを作った時間。

 

友達と成績を競ったり後ろ指を指されたり、

惰眠を貪った一日といった「これまでの自分」全部です。

 

 

 

 

 

 

 

自分を作っているのは「頑張って来た自分」だけではない。

「褒められる自分」や「やらなければいけない事をやって来た自分」ばかりでもない。

 

何もしなかったり仕事を休んだり諦めたり。

 

 

 

 

 

 

そうした先で【何かを作れている自分】が居る。

誰かが「好き」だと言ってくれる自分が居る。

 

 

今の自分に辿り着かせてくれたのは「努力して来た自分」だけではない事は、

 

既に今居る自分が証明してくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

だから嫌なら「嫌」と言って良いし、

やりたくなければやらなくて良い。

 

そもそも「こうでなければ」と選択や裾野を狭めたら、

 

 

 

本来の自分の【可能性】すらも狭めて行ってしまいますよ。

 

 

「手作業」という面白味

 

約束手形も2026年には廃止予定。

 

 

 

確かに万が一の紛失や不備の防止、

紙の削減や工数省略等の観点で見ると電子手形の方が遥かに安全性も高いですし管理もし易いのですよね。

 

 

 

 

それでも敢えてセキュリティー面や効率面とは無縁の話をすると、

 

紙面での処理も手入力も個人的には割と好きなんですけどね(笑)

 

 

継続に必要なのは、「楽しみ」を見付けてあげること。

 

お風呂掃除の何が一番「楽しみ」かって、

 

 

床なり壁なり浴槽なり排水溝なり磨き倒して、

泡だらけの一室をシャワーで一掃する瞬間が何よりも爽快なのですよ。

 

 

 

 

 

部屋だけでなく心も洗われるあの感覚がとにかく好き。

 

 

この数秒間を見たいが為に30分~1時間、

精を出していると言っても多分過言ではないと思う。

 

 

夏は湿気でうねるなら、冬は乾燥でまとまらない。


お風呂上がりにどれだけ入念にヘアケアしても、





朝の身支度でどれ程スタイリングの時間を充足しても、


出社時には静電気でフワッフワになっている我が前髪様に

「君はどんだけ(ダメージホールで)スッカスカなんだい我儘ボディーならぬ我儘ヘアーなのかい」






とそろそろ両肩掴んで揺さぶりたくなる頃合いです。




【好き】の真髄


フリスクを食べると何故かくしゃみを連発する自分。

だけどフリスクは好き。




実は猫アレルギーな自分。


だけどやっぱり猫が好き。







自分のタイプでもなければ、【理想像】に一言一句合致した人でもない。



だけど好き。






【好き】の真髄って多分、

「だから好き」よりも「だけど好き」なのだと思うんです。




「味を覚える」ということは、感性の受け口を増やすこと。

 

自分、20歳くらいまで生魚や焼肉の類は一切食べられなかったのですよ。

 

 

 

その理由は多分、味覚よりも生臭さや歯切れの良し悪し等といった嗅覚なり食感が先に立っていたからだと思うのですが。

 

だからお寿司屋さんへ行った際は基本的に茶碗蒸しや玉子を頼んでいましたし、

焼肉屋さんでは冷麺やお野菜といったお肉以外の料理を注文するのが常でした。

 

 

 

 

 

 

でも節目の年に、当時お世話になっていた方が連れて行ってくれた小料理屋さんのお刺身と、ご贔屓になっていた焼肉店のお肉の味を知ってから、

 

それまでの概念が草の根ごとひっくり返されてしまったんです。

 

 

 

 


月並みな表現にはなってしまうのですが、

お刺身であれお肉であれ、例えば歯切れの良さや臭みの無さ、はたまた脂の甘みとか。


美味しいものを食べると自然と笑みが零れてしまうものですが、

例に漏れずおすすめのお刺身も焼肉も、口に入れた瞬間ニヤけが止まらなかったのを未だによく覚えています(笑)











人の嗜好というのは面白いもので、

生魚も焼肉も「美味しい」と認知して以来、他店や自宅の食卓でも口にする事が出来るようになっていました。


これは自分が思うに、お刺身や焼肉の「美味しい」と感じられる部分に自身のセンサーが触れた事で、

それまでの【感性】や【認識】を更新する事が出来たからだと思うんです。





それまで「美味しい」と感じる前に臭みや食感が先立っていたものが、

「美味しい」と感じられる区画を新たに増設した事で、他のお店や料理でも率先して【味覚】を拾う事が出来るようになったんです。

 

感性の受け口が広がったと言うか、

味への繊細さが増したと言うか、

「美味しい」という体験を一度踏まえる事で、その食べ物そのものの美味しさが分かるようになったんですよね。

 

 

 





 



もしかしたらこれは、

お仕事や物作りにも通ずる道理なのかも知れません。


商品でもパフォーマンスでも、

【良いもの】を見る事や知る事は、同時に自らの知性を刺激し五感の裾野を開拓する事でもありますし、


事柄や目の前の事象に対して「良い」と感じられる【器】や【感性の網目】を細やかにする事でもあるのではないかと思います。





そしてそれは、やがて物事を受け入れる【領土】そのものへと進展する。

 








 



食べ物と同じように初めて口にしたり手に取るものは「美味しい」か「否」かと判ずるまでに時間を要するものですし、

そもそもそれに触れる感性の糸を下地に持っていなければ引っ掛かる事すら難しい。


 

 

逆に言えば、

どれだけささやかな事でも、身近な商品や提案でも、

それまでに取り入れて来た知覚や味覚や嗅覚が、

大味な【概要】の中に敷き詰められ張り巡らされた見込みや面白みに触れる「感」に成れると言えるのだとも思います。


もしくはこうした「賽の目」が、

【応用】へ派生する際に必要な主軸や基本や大元の礎石を育む為の【肥料】に成る。










第一線で活躍されている方々や「一流」と呼ばれるものへの【体感】は、

時に自身の中にある「概念」を撹拌し「観念」を根本から覆す【杓子】の役を担ってくれる。



私が好き嫌いを克服する一つの切っ掛けにもなれたように、

それまでの【否定】を【肯定】へと転じさせる伏線さえ張ってゆくのかも知れません。








だからきっと、【良いもの】は積極的に摂り入れて行くべきなんです。



 

冬の子供心と探求心

 

小学1,2年生くらいの頃、

滅多に降らない雪が降るも途中からみぞれに変わり出して、

 

 

どうすれば雪が積もるかと考えた結果、「雪が降るには気温を下げなければ」と思い立ち、

 

 

 

冷凍庫から大量の氷を持ち出して一人で庭にバラ撒き続けていた自分は多分とても無垢でした。

 

 

 

 

ちなみに私が満足するまで親は私を止めなかった。

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ