キツツキゲーム

後悔は気付き。 気付きは教訓。 教訓は学び。学びは成長。

後悔も気付きも傷付きも、
すべては自分を豊かにしてくれるゲームである。

【幸せ】は既存品ではない。


「『お腹いっぱい』だと言っていたのに、

だからお昼も食べなかったのに、


お仕事の合間に一人でご飯を食べに行った彼の事が許せなかった」





そんな彼女の想いを聞いて思ったのは、

「私も全く同じ経験を昔していたな」という事です。







25歳当時の同棲を始めて暫く経った頃、

私の帰りが遅くなって「お互いにまだ夕飯を食べていない」と事前に伝え合っていた上で、

一人で一人分だけの夕飯を作って一人で食べて、一人で済ませていた元彼の事が許せなかった。




「『満たしたい』と思うのは自分だけで、私を満たしたいとは思わないのか」と。


それが無性に悲しくて腹立たしくて、

頭で考えるよりも先にカッと熱くなった脳味噌のまま家を飛び出したのですよ。









多分、ある程度割り切っていたお相手なら、

「そういう方も居らっしゃるよな」とか「自由な人なんだな」という解釈で受け入れる事が出来ていたのだと思うんです。




そこで自分が気が付いたのは、


私が怒る時は必ず【私情】が入っているという事。

「私を大切にして欲しい」という【個人的な感情】がお相手に対して芽生えていたという事でした。





それは私が【元彼】という人を介して、私自身の幸せを願っていた証拠なんですよね。


彼があっての幸せで居たかったし、

彼が「満たす」のであれば、【私】という存在を介して「満たしたい」と思って居て欲しかった。




だってこれは少なくとも私にとって、

【短期の関係】でも無ければ【一度切りの関係】でも無かった訳で、


「これからもずっと傍に居たい」と思っていた人だから。









幸せはきっと「育てるもの」でもあって、

どれだけ「大切にして欲しい」と願っても、重んじている【礼】や【幸福】は人それぞれ。



「どんな事を大切にしているのか」を伝えなければお相手だって大切にしようがありませんし、意識する事が出来ないんです。








だから自分の気持ちを伝える事は【独りよがり】でも無ければ【押し付け】でもないんです。


それは二人で共有出来る【幸福数】を増やして行きたいと思うからで、

分かち合いたいと願うからで、




例え【共感】までは行けなくても、

これからも傍に居たいからこそ「一人の気持ち」を「一人だけの気持ち」にしてしまわぬよう「努める」という事でもあるんですから。











お相手に対して【怒り】を感じる時は、

「自分はこうして欲しかったのだな」とか

「こうした未来を望んでいたのだな」という純粋な自分の声に耳を傾けてあげられる一つの期間でもあるんですよね。




それは話し合うにしても喧嘩するにしても距離を置いてみるにしても、



きっと【この先の時間】について考えるという事で、

【これからの期間】を今この瞬間から転換し始めるという事で、


【死ぬまでに残された時間】を大切にしようと努められるという事でもあって、







果ては【今ある感情】を大切にしようと想える行為に通ずるのだと思うんです。


「怒り」=「悲しみ」


【叱る】が他人軸であるならば、

【怒る】とはきっと自分軸。


「叱れる」という事は、他者の為に自らの労力を費やせる人という事で、

その為のエネルギーを燃やす時間に自らの人生を充てる事が出来る人。



そして「怒れる」人は、

自分の為に命を燃やす事が出来る人。






「こうされて腹が立った」のは

「こうされた事に傷付いた」から。

「こう言われて頭に血が上った」のは、

「こう言われた事がとてもショックだった」から。


【怒り】って、すなわち【悲しみ】でもあるんです。





それらの傷や痛みから自らの心を庇う為に突出するのが【怒り】という矛であり槍なのだとも思います。








傷付く事が出来るのは、

自分の気持ちを捨て置かずに居てくれる方へこそ与えられる【人権】です。


自分の気持ちに無関心であるならば【怒り】という能動にすら行き着けない。





自分の為に怒れる人という事は、

自分の為に生きれる人なのだという事を忘れたくないし、忘れないで居て欲しいと思うんです。



意見する者の礼節


制作者の方と感想や見解を交えたり、或いはディスカッションを行う時、



私は【クリエイター】という同じ土俵には立てませんし当事者にも成れませんから、

「あれは駄目」「これも違う」などと言い始めると、どうしても批評家や評論家になってしまう。


そうした懸念が常に念頭にあるんです。





それは突き詰めれば只の文句や悪口へと転じてしまう「恐れ」のある行為ですし、


自身の論点や感想が持つ【統一性】を見せない限り、

「じゃあどうしたいのか」という【核心】や【背骨】の部分にいつまで経っても触れられない。

本来の主旨や自分自身の【軸】からどんどんブレて行ってしまうんです。





だから相談を頂いたり感想をお伝えする時は、

必ずそれに併せた「私案」を添えるように努めるんです。


意見する分こちらも提案する事で、

自らも制作者になるべく近しい責任を持つ。






それが【意見する(自分の意思を見せる)】という事だと思いますし、

意見する者に叶う最大限の【礼】なのだと思うんです。


自分自身への恩返し


独特な感性かも知れませんが、




自分の今在る身体って、【私】という魂(本体)がこの世で悩んだり笑ったり怒ったり、

総じて「遊ぶ」為にお借りしている器というイメージがあるのですよ。



だから地へお還しするその日迄、

私はこの子を幸せにしてあげる義務がある。





それが私への恩返しでもあると思うんです。


物事の「善し悪し」を振り分けるもの。

 

人が通れば空気も流動する様に、

 

水面に足を入れれば波が立つのと同じ様に、

 

 

 

言葉や行動を起こせば、その反応が自らへ【還元】されるのが自然なもの。

 

 

 

 

 

言い換えれば、言動なり感応なり「反応」を頂けるという事は、

【今】を動かした自分の発言や一挙手一投足をその人が「見ていてくれた」という事です。

 

「嫌い」という一見後ろ向きな一言も、

その方が歩まれて来た環境や編み出された感情や、

学校生活での交錯や家庭で過ごされた摺り合いといった所謂【人生】の中で捻出された【最も腑に落ちる一言】だったのかも知れないし、

 

今出せる最大限のメッセージで身を切る様に出された一音だったのかも分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前で起こる波風も笑顔も見解も、

 

それに対して「是非」の振り分けをしているのは極論【自分の心】です。

 

 

 

日常を動かす毎に寄せては返す大波小波を「拘束」や「不自由」や「生き辛さ」だけでなく、

【物事を行う上での景観の一つ】と解釈する事が出来たなら、

 

 

 

 

 

今以上に「正解」、「不正解」を区分けるものも減るのだろうなと思うんです。

 

 

発言の価値

 

そもそも発言って、

 

そこに発生する言葉足らずや綻びや、

あるいは誤解や解釈の齟齬といった【死角】ないし【意識の隙間】を日の目に出すという事でもある。

 

 

 

だから「自分の弱さを見せる」行為の一環に、

「発言する」という動作も含まれるのだと思います。

 

だからきっと発言するって怖いんです。

 

 

 

 

 

 

 

それでも自分が思う【発言の価値】って、

そうした「弱点」や「稚拙」さを含めて自分が損するに【自分の本当の事】を明るみに出す事なんです。

 

 

それはお相手の意図や価値観、

マジョリティーやマイノリティーには寄り添えないかも知れないけれど、

 

 

 

 

 

 

それでも唯一、【自分の本当の事】なら言わせてあげられる。

 

 

 

そこに自分自身へのご褒美と言うか【発言の価値】はある訳で、

その後頂ける反応は、自分にとっての【思わぬ戦利品】でもあったりする。

 

 

 

 

 

 

だから目先の【得】には為りませんが、

自分の本当の事を言った先で着いて来てくれる「意思」や「声」や「反感」が、

 

 

自分にとっての本当の【心臓】に成れるのだと思うんです。

 

 

 

生きる為の最後の【綱】


人は他人(ひと)の言葉だけでなく、

自分自身の身から出た言葉にさえリアクションを起こせてしまえるもの。


だから「疲れた」とか「休みたい」とか「もう嫌だ」とか、そうした言葉達を外に出してあげる事は、

その分の【反動】をご自身や周囲に与える行為でもある事をきっと知っているんですよね。






心の病を抱えるという事は、

そうした弾かれたり疎まれ易い「行き場のない言葉達」の居場所に、自分がなってあげられていたという証拠なのだと思います。


そうして今日まで頑張って来た【心の跡】でもあるのではないかと思うんです。

その方は、ご自身にも周りにも優しく在りたかった人なんです。







だから一概には言えませんし、

これは不謹慎な言い分なのかも知れませんが


心の病を抱えた間は「死にたい」も「嫌だ」も「もう辞めたい」も、

それまで制限していた台詞達を漸くご自身に許してあげられる期間なのだと思います。






言葉も自傷も、それが今その方々に出来る【命を繋ぎ止められる術】だから。




「祭りの後」よりも「革命前夜」


「夜明け前が一番暗い」という言葉がありますが、



仮に今を【夜】として、

これから【朝】を迎えるのだと自分の中で決めていたら、

明ける朝よりも夜明け前を楽しみに感じてしまう自分が居たりする訳ですよ。






まるで祭りを間近に控えた準備期間中の高揚感すら覚えてしまうから不思議なものです。



声が届く距離だからこそ、今自分達に出来ること。


ファンという立場だからこそ見える景色があるように、

アーティストには、アーティストという【当事者】だからこそ見える景色と死角がある。


だからこれは、烏滸がましく差し出がましい行為なのかも分かりませんが、

彼等の【もう一つの目】となってあげられるのがファンなのだと思います。








時に辛辣な物言いになりますし伝える為には言葉を選びませんし、疎ましくも忌避される事もあるかと思いますが、


第一「発言する」という事は、

それと同時に周りからのリアクションを甘んじて受ける行為でもありますから、




常日頃のツイートでもストーリーでもブログでも、

元より覚悟は出来ています。








彼らには歌で笑える「人」で在って欲しい。

【自分が心から楽しめている】という筋を通したその先で、その笑顔をお裾分け出来る「アーティスト」で居て欲しい。


だから後ろから着いて行く気は毛頭ありませんが、





何かあった時、

こちらから見える景色と認識を伝え合えるだけの場所には居るつもりです。




【お金】に重みをつけるもの。

 

一握りの千円札に、果たしてどれ程の時間が宛てがわれて、

どれだけの【一部】がそこに置かれて来たのでしょう。

 

 



今この時って「もうここには戻らない」時間でもあるんですね。

後にも先にも「もう無い」最初で最期の一秒間。

皆が全員、そんな1日24時間というタイムリミットの中で生きている。

 

そしてその内の一つに充足するのが、

【労働】という時間です。

 





 

食事にも趣味にも安全な部屋で眠るにも、

この世に生きている以上、


その命には常に【お金】が発生します。

 




例外はありません。

 




 

仕事って、そんな人生の幾分かに自分を充てる「やらなければ【行けない】時間」でもあるのだと思います。

 

自分が「やりたい事」を成す為に、

「やるべき時間」に自身を通して生きている。

 



【今生に一度】の時間を【自分以外】の誰かの為に生きている。

 




 

それは例えばクライアントやお客様、家族や教え子。

仕事を通じて誰かの豊かな時間に【時間】を充てて、


どこかの誰かが笑顔になる時間に自分を与えている。

 




【自分の時間】を与える事で、【誰かの時間】が活かされる。

【自分の時間】をそこに「充足」する事で、どこかの誰かが充足する。

 

 


そしてそうした時間を通した先で与えられるのが、

食であって住まいであって、衣服や電気や水道や、自分が「安心して眠る事の出来る生活」であったりするんですよね。

 

一方でそれは、「欲しい物」や「やりたい事」といった、

「自分のやりたい時間」に自分を充てて行ける時間を与えられるという事でもあると思うんです。

 




その【時間】を自分が【自分】に許可出来るという事でもあると思うんです。

 

自分の時間を与える事で、

自分の時間を買っている。



それがお金です。

 





 

詰まる所【お金】とは、【時間】という一生に一度の「値の付けられない重み」に、

目に見える形としての重みを与えた「代弁者」の様な存在なのだと思うのです。

 


時間とは【お金】の事であり、

お金とは【その人が生きた時間】です。

 





 

一日24時間、いつ死ぬかも分からない【有限】の中で、その人が削り充てて来た血肉の様な【時間】です。

その人の人生の内の【幾分】かです。

 

その時間を私達は貰っているんです。

 




自分の人生という時間の上に、

その人の時間を上乗せして生きているんです。

その人の時間に生かされて生きているんです。

 

お金を貰う。

プレゼントを貰う。

時には言葉を頂いて気持ちを頂く。





その方の時間を貰っていて、

その方の限りある人生を貰っている。

 

私達が日頃やり取りをしている「それ」って、そういう事なんです。

元来それだけの【重み】を常に伴うものなんです。

 




 

お金に価値は無い。

価値があるのは時間です。

 

 

 

見るべきなのは手物にあるお金の【金額】そのものでは無く、

その中にある人ひとりの【重み】ある時間なのだと私は思っています。

 

その人が削り出して来た【命】の一部がお金という【時間】として還元されて行くからこそ、

お金には価値が付随されて行くものなのだとも思うんです。

 




【時間】を贈るって、それだけの重みある行為なんです。

 

 



お金を渡す。

贈り物を贈る。

それを差し出したいと思って下さる方の【想い】って、

それ程に痛み入るものの筈なんです。

 

もう無い時間を自分にくれる。



だからこそ【想い】の受け手には、

 






その【時間】に対して真摯で誠実でなければいけないのだと思うんです。

 


だから【アーティスト】であるそれ以前に【人間】である必要があるんですよ。

 

「アーティストは歌でしか感謝をお伝えする事が出来ない」

 

 

と、各歌い手様からお聞きする言葉ではありますが、

 

 

 

 

 

日頃の会話や立ち居振る舞いから【誠意】や【切実】、【真心】を感じられなければ、

その方のお人柄に重みを感じる事が出来なければ、

 

この歌すらも心に届く事は叶わないのだと思います。

 

 

 

発言するという事は、それに伴う共感なり反感といった【リアクション】を甘んじて受ける事でもある。


「欲しい欲しい」と要求を続け、

貰えなくなったら手を放す。





「来る者拒まず去る者追わず」と言ってしまえば心象も変わるのかも分かりませんが、






「貰える物は貰う」のではなく「与えられる物は与える」事が出来ないのは、


それを拒まれた時の【擦過傷】や行為に連れ立つ【責任】を伴いたくないからです。



意志の伝達と聞く努力


ファンにはファンからの視点でしか観えない景色があるように、

アーティストにはアーティストだからこそ観える景色と死角がある。




それを伝え合う機会と時間、総じて【足並みを揃えられる場】を設けなければ、


認識は擦れ違い、

理解は誤解へと展開し、

着いて行く事すら儘ならなくなってゆく。





これはファンとアーティスト間に限った話と言うよりも寧ろ、

活社会に於ける人と人との【コミュニケーション】の問題なのだと思います。


知る事が出来るから喜ぶ事も怒る事も叶いますし、

その先の和解や解釈へと転じて行く事も出来るんです。






人は知る事が出来て初めて【人】に寄り添える。

気持ちを持ち合う事も理解に努める事も可能になる。



そのスタートラインに立つという行為を許される。






今忘れたくないのは、


サプライズとは伝達の欠如ではないという事。





そして「着いて行く」とは、

言われた事に付き従う事では断じてないという事です。



1.17を迎えて。


漢字の読解すら儘ならなかった当時。



テレビを流れる「地震速報」の帯と字幕越しの市街地は、当時の自分に取ってまだ遥か遠い地の出来事だった。


時を経て歳を重ね、「地元」と言う名の箱庭から出た先で、かつての渦中を生きた人々の生の声を聞く様になった。


そうした人々が恩師となり後輩となった。







震災を知らない世代や「風化」という声がポツリポツリと気泡を立てて行く中で、

それでも少なくとも自分に取って、



27年前の災害は、

【27年前】よりももっとずっと身近な出来事になっていた。

戦禍も災禍も肌で感じる機会の希薄だった自分に取って、唯一出来る歴史の継ぎ方が【人に出会う事】なんです。





それはその人の【踏み跡】に触れる作業でもあると同時に、

その人を育てた環境や土地、ひいてはこの国の【一分】を知る事へも通じていく。


だから出会い方は対面でも良いし本でも良い。

聴くでも観るでも良いんです。






人に出会う事はきっと、

その人の歴史を「その人だけの歴史」にしない事だと思うから。





「諦める」へのタイミング


諦めるという事は「明らかになる」という事です。




「無理」の定義は社会が決める事では無く、自分の中の【解釈】と【見切り】が大前提の話ですが、



出来ないと分かった時

もう無理だと踏んだ時


人は初めて【諦める】






発する言葉を失くした時は、

自分が見切りを付けた時。



「それ」が明らかに成った時。



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